新刊紹介 原克、自著三部作を語る

ゆるやかな三部作――「分野」という仮構と表象分析
原克
  • 『美女と機械――健康と美の大衆文化史』河出書房新社、2010年1月
  • 『気分はサイボーグ』角川学芸出版、2010年6月
  • 『身体補完計画――すべてはサイボーグになる』青土社、2010年8月

この一年、熱にうかされたように三冊の本を書いた。1月に『美女と機械』(河出書房新社)、6月に『気分はサイボーグ』(角川学芸出版)、8月に『身体補完計画』(青土社)である。

本来、ボクの関心はポピュラー系科学雑誌の「語り口」を読み解くことにある。正確な科学知識といえども、一般読者に伝達される際に、市民的欲望とか進歩主義的未来像とか、本来科学知識そのものとは関係ないはずの表象ノイズが混入してくる。それは、いわば神話的語り口とでも言うほかないようなメカニズムであり、従って、20世紀とは科学の時代というよりも、むしろ科学神話の時代といったほうが適切なほどである。そうした事態の根深さを掘りおこすこと。これが最近の関心事だった。

『美女と機械』では、健康美神話について語った。それは、科学雑誌を読み漁っていたとき、あることに気づいたことがきっかけだった。男性モデルと女性モデルの存在である。まったく同機種の機械なのに、ある記事では男性モデルが操作しており、別の記事では女性モデルが使っていたのだ。1920年代のことである。一方で、乗馬マシンに太り気味の中年男性が乗っている。他方、同じ乗馬マシンにレオタード姿の女性が乗っている。この違いに違和感を覚えた。その背後にある、記事の表象戦略が知りたくなった。そこから出発して書き上げたのが本書である。

『気分はサイボーグ』では、人間の電気的身体イメージについて語った。それは『美女と機械』の執筆にむけ資料整理をしている段階で、積み残したテーマだった。フィットネスマシンなど「機械仕掛け」で、体外から体内への人為的手立てをほどこす系譜とは別に、電気的手立てにより体内を操作する科学的系譜があることに気づかされたからだ。そこからできあがったのが本書である。

『身体補完計画』では、身体の境界侵犯とサイボーグ表象について語った。それは『気分はサイボーグ』の資料整理をしている段階で、これまた明確になってきたテーマだった。高周波電流の神話圏が、体外から体内への人為的手立てとして起動してくる系譜とは別に、それと連動しつつも、20世紀前半に体系化されはじめた、脳波研究や人工臓器研究、義手・義足といった人為的手立てもまた、1940年代以降、サイバネティック理論を経由してサイボーグ表象に糾合されてゆくことに気づかされたからだ。そこから本書が生まれた。

当初から目論んだわけではないが、今にしてみると、20世紀型身体表象「三部作」となったように見える。が、そんなものは結果論にすぎない。膨大な科学雑誌の記事の山を、飽くことなく読んでゆくうちに、ボクの方が勝手に導かれたかのようだ。それに、なにも三部で完結というものでもない。いずれ著者の「意図」などというのは、たわいないものである。

ダナ・ハラウェイは論文「サイボーグ宣言」で、「境界侵犯」について語った。コンピュータをはじめ機械との共生関係が避けられない時代、20世紀後半、だれもが「機械と生物の雑種」と理論づけられ、組み立てられている。「サイバネティックな有機体」、つまり「機械と生体の複合体(ハイブリッド)」。「要するに、わたしたちはサイボーグなのだ」。

思えば、西洋の科学伝統において、生体と機械との関係は、つねに「境界をめぐる闘争」でありつづけた。ところが、サイボーグにおいては、「三つの重要な境界侵犯」が起こった。ひとつは、「人間と動物の境界侵犯」。次に、「生体と機械の境界侵犯」。そして、「物質と非物質の境界侵犯」である。シリコンチップや分子レベルでの加工可能性など、超小型化した新種の機械類によって、サイボーグはこうした伝統的な境界を一気に侵犯したというのだ。その通りであろう。それは、微分してゆく分析的な手立てが、体外から体内へと、その人為的操作性のベクトルを深く侵入させてゆき、こうした「生権力」が、体内に透過し、浸透してゆくことによって、根本的境界侵犯が生じると言いかえてもよい。

ところが、こうした生権力による境界侵犯というのは、もちろん、20世紀後半になってはじめて起こったことではない。ミシェル・フーコー『臨床医学の誕生』が指摘したように、近代初期における「死」をめぐるまなざしが表層から内部へ拡張していったという、大きな言説の枠組みの変動があったればこそだ。もちろん、こうした見立ては、言葉のもっとも広い意味においてのことであって、近代初期以降におこなわれた手立てが、すべてサイボーグ的だったわけではない。それでは拡大解釈のそしりは免れない。しかしながら、それでいて、こと身体と機械の表象関係というとき、高い操作性をもった、体内への「透過」イメージというのは、境界侵犯としては「格段にオープンな場」(ハラウェイ)ではあったかもしれないが、確かに、20世紀後半サイボーグとして登場してくるものに対して、表象の枠組みを用意したことは間違いない。

境界侵犯の表象の系譜というのは、ほぼ20世紀を通じてかたときも休まず、さまざまな領域において、おそらくは、たがいに理論的連動性をもつこともなく、散発的に登場しては消えていった。例えば、物理療法の補助器具しかり、高周波電流神話の使徒「紫光線」の神話圏しかり、フィードバック回路しかり、はたまた脳波の詐称的イメージ「N光線」しかり。それらは、錯綜し、孤立し、変転し、くりかえし現れては消え残り、消えてはまた再生してきた。それら表象世界は、ひとつの言説の「歴史」あるいは表象の「歴史」などといったものとは違い、なんら自己同一性を保持した「分野」といったものではなかった。

それは、それぞれの具体的な現場において、それぞれ個別に出来してきた表象世界でしかなく、したがって、たがいの連動性や共通基盤など認識していたわけはないできごとたちだった。そればかりか、場合によっては、表象のできごととして、おのれ自身の立ち位置すら明確に自己認識できない、そんな一回限りの孤立した表象現象たちであった。そうした、たがいに孤立した表象現象。孤立しながら、しかし、どこかで一連の「系譜」に属すると見立てようと思えば、見立てられないこともない表象世界たち。それが、なんらか糾合してきた。こうしたできごとが、20世紀の身体をめぐる表象の枠組みをかたちづくっている。

しかし、見誤ってはなるまい。ここで、一見糾合してきているように見える表象の系譜も、たちまち、ふたたび離散してゆき、解体してゆくことになるかもしれない。そして、後年、かつてそこにあったかもしれない身体表象の「痕跡」として、これまた消え残ってゆくのかもしれない。そんなあやふやで、本来、曖昧模糊とした表象の渦巻き。それを、無理やりサイボーグ的身体表象と称して追究する。それもこれも、20世紀型身体表象とでも言うしかないものに、暫定的で限定的ではあっても、ひとつの分析的視点を仮設できればと思えばこそである。したがって、身体をめぐるいかなる言説世界も、決して、決定論的な視座を提示している歴史資料として見られるべきではなく、むしろ、それまでの表象の系譜がそうであったように、これからの身体表象の系譜に対して、自己解体の契機を多孔的にはらんだテキスト現象としてのみ読まれるべきものだろう。表象の系譜という仕掛けは、所詮、それ自体、分析的仮構にすぎないのである。

原克(早稲田大学)