第5回研究発表集会報告 研究発表 1

研究発表1

2010年11月13日(土) 9:30-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1

研究発表1:記憶・歴史・アーカイヴ

書物内の旅──C.-N. ルドゥーの建築書における空間配列と身体性
小澤京子(東京大学)

W・G・ゼーバルトにおける博物誌/自然史
鈴木賢子(実践女子大学)

〈場所〉と記憶──記憶芸術(Gedächtniskunst)の場所をめぐって
石田圭子(東京藝術大学)

アーカイヴ・アートによる歴史的記憶の表象──ジークリット・ジグルドソン《静寂の前に》
香川檀(武蔵大学)

【司会】田中純(東京大学)

パネル1「歴史・記憶・アーカイヴ」では、フランス18世紀後半に活躍した建築家による建築書、20世紀後半のドイツ人文学者によるテクスト、現代ベルリンの「記憶芸術」の諸作品、そして現代ドイツのアーティストによるインスタレーション作品についての、4つの発表がなされた。これらの発表は、「空間」(前二者においては仮構的な空間であり、後二者は現実の空間を扱っている)における「身体の経験」と「記憶の配列」というテーマを共有するものである。

小澤京子(報告者)の発表は、フランス革命期の建築家C.N.ルドゥーによる挿図入り建築書の、形式的な構造とナラティヴの様式に着目し、主人公=語り手の身体経験と、そこから立ち上がるフィクティヴな空間性を分析したものである。そこでは、旅行記に仮託された理想都市の計画と、ヘルメス主義的な空間概念、そして実現された建築群の構造が呼応し合っている。また、テクストとイメージの関連性(および、そこに生じている微かなズレ)という点では、ルドゥーの建築書は、ほぼ同時代に編纂された『百科全書』ともエピステーメーを共有している。

鈴木賢子氏の発表は、ドイツの作家W.G.ゼーバルトの作品『土星の輪』を対象に、反復的に登場するモティーフ「グリッド」(窓、地図)と、博物誌に擬態した記述スタイルとを、17世紀のトマス・ブラウンによる博物誌(フーコーの言うルネサンス的思考に属する)やトルボットのフォトジェニック・ドローイングによる《格子窓》、そこに反映しているダーウィン以前の自然神学を参照項としつつ論ずるものである。この分析により氏は、ゼーバルトによる時間記述が、(人間の文明史ではなく)「自然の歴史」として展開されていることを浮かび上がらせる。

石田圭子氏の発表は、アスマンの記憶論(意志的なリコレクションと無意志的なアナムネーシスの二分)、「ゲニウス・ロキ」の概念、ベンヤミンの「身体空間」概念などを援用しつつ、ベルリンという都市の中に場を占める「記憶芸術」が、いかなる場所性を有するのか、われわれの身体と記憶にいかに訴えてくるのかを分析したものである。「対抗記念碑」であるこれらの作品は、「ゲニウス・ロキ」を召還し、視覚による統一的な把握を阻む、不在・亀裂・穴を孕んだ、拡散的・断絶的な空間として立ち現れる。この空間は違和感や不安とともに身体全体で感得され(=肉空間)、その空間の「裂開」を通じて、集合的記憶の受動的想起が促される、と氏は整理する。

香川檀氏の発表は、ドイツのアーティスト、ジグルドソンのインスタレーション作品《静寂の前に》が有するアーカイヴ性を、アーカイヴ論の文脈(フーコー、フォスター、スピーカー)を踏まえた上で、「記憶」を扱うアーティスト、ボルタンスキーと比較しつつ、その特徴を浮上させたものである。コラージュ/モンタージュ的に集積された異種混淆的な断片は、明確には言語化できないナラティヴを観者のうちに生起させる。また、この作品では、アーカイヴ構築と同時に、記憶内容の暴力的な破壊もなされているが、これは「歴史」を実証するかと思われるアーカイヴの「虚構性」を暴くものだ。観者の記憶を喚起するのは、差し迫った忘却、沈黙、そして死である(ここに沈黙Stilleというタイトルの意味がある)というのが、氏の主張である。

続いて行われた質疑応答では、まず司会の田中純氏より、四つの発表を結びつける共通のテーマ系が指摘された。すなわち、ルドゥーの『建築論』は、時代のエピステーメーの変化を反映し、また事物の「分類」が問題となっている点でゼーバルトの「博物誌」と、身体移動の際の「語り」という点で、都市の中の記憶芸術と通底している。また、ルドゥーとゼーバルトは「テクストとイメージ」という軸、ゼーバルト、ベルリンの記憶芸術、ジグルドソンの三者は「記憶/歴史」という軸によって貫かれている。

香川氏は、石田氏の扱う記憶芸術が、「一種の《場》であり、そこに身体を置くことで記憶へのアプローチがなされている」と指摘する。ジグルドソンの作品もまた、このような「場を構築」するものである。そこで観客は、受動的に無意志的記憶を呼び起こされるのではなく、作品への参与によって、能動的な想起がなされている。一方で石田氏は、確かにアスマンの言うアナムネーシス(受動的想起)の例としていくつかの記憶芸術を取り上げたが、しかしここで「能動的想起」と「受動的想起」とは決して対立的なものではなく、むしろ弁証法的に捉えられるべきである、と応答する。またゼーバルトにとっても、歴史は重要なテーマである。この作家は、様々な時代の自然史をパラフレーズしつつ擬態し、様々な博物誌の断片を並べていく。ゼーバルトの自然に対する考え方は、「歴史」の刻印を受けていると鈴木氏は言う。

美的な芸術作品がいかに悪や暴力に対抗しうるか、という会場からの問いに対し、石田氏は、記憶芸術の作品には倫理的対抗も期待されており、「身体性」がその賭金であるが、危険性も孕んでいることを指摘する。この議論に続けて田中氏は、この身体性はたやすくテーマパーク性に回収されてしまう虞があることを指摘し、昨今のベルリン宮殿復元案に見られるように、ベルリンという都市は「記憶」を売り始めてしまったのではないか、と問う。

「場所性」にまつわる問いに対して、香川氏は、ジグルドソン作品の特徴の一つとして、ドキュメントの配置は一定のグリッド内(書架)内にはあるが、観者の介入によって常に移動しており、目的のものをなかなか「見つけられない」というコンセプトがあることを指摘する。また、個々のケースには作者が資料を入手した日付が付されており、アーカイヴに資料が集積する時間性がそこに体現されている点にも言及する。

ルドゥーの建築書をめぐっては、「外部の歴史との関係性(もしくはズレ)」を問う質問が寄せられた。過去(既存の作品群)と未来(理想の都市計画)の双極を往還する時制が採られる『建築論』が刊行された契機には、フランス革命により失職するという、外部の歴史的事件による不可抗力があった。他方でルドゥーには、パノプティコン建築や博物誌的な分類概念など、同時代のエピステーメーを反映した部分も存在する。そこで都市空間を旅する身体によって語られているのは、実は未来の都市計画であり、場所に積層している記憶ではない。しかし、個々の「建築物」によってナラティヴが喚起され、展開していく点は、石田氏の挙げるブルトンの『ナジャ』やゼーバルトの作品群とも共通している。

質疑応答と討議を通じて浮上したのは、「歴史/記憶」という概念に対して、「空間(場所、都市)」「身体」「語り(ナラティヴ)」「分類・配列」といったテマティックが有する重要性であり、また作品を外在的に取り巻く、あるいはそこに内在する政治性である。今回のパネルは、個々の研究・分析が有する意義に加えて、互いに連関し合いつつ上述の諸問題を炙り出し、それに一定のコンステレーションを与えるものであったと言えよう。

小澤京子(東京大学)

【発表概要】

書物内の旅──C.-N. ルドゥーの建築書における空間配列と身体性
小澤京子(東京大学)

書物は一つの時間芸術であり、そこで展開されるナラティヴはクロノロジカルな構造をもつ。しかし、ある種の書物はまた、空間芸術としての性質をも有している。 発表者はこれまでの研究のなかで、C.-N.ルドゥーの建築書『芸術・慣習・法制の下に考察された建築』(1804年刊、以下『建築論』と略記)におい ては、イメージとテクストの連続体により擬似的な空間性が生じていること、「私」という一人称を主体とするナラティヴにより、リアルな運動性や身体感覚、 臨場感が喚起されることを示してきた。本発表ではこの分析をさらに進め、ルドゥーの『建築論』で展開されている空間がいかなる性質のものであるか、また、「語り手」の身体性がいかにして担保されているのかを明らかにする。

『建築論』の特色は、挿入された諸々の建築図面とナラティヴとの交差が、「旅行者」としての主人公の辿る旅程を示唆しているという点にある。「語り」が 時間性と同時に空間性を有するという点で、ルドゥーのテクストは、異郷への現実の旅、あるいはユートピアへの空想上の旅を綴った旅行記の伝統とも通底して いる。ルドゥーの同時代人を挙げるなら、マルキ・ド・サドのテクストにも、擬似的な空間性と「移動し知覚する身体」とを見出すことができる。本発表では、 このような諸例との比較参照も行う。

ルドゥーの『建築論』は、異質な要素の「継ぎ接ぎ」であると同時に、図像とナラティヴのセリーにより、「建築の博物館、もしくは百科事典」としての空間 的展開をも有していた。本発表の企図は、本書のかかる性質の分析を通して、そこでのイメージとナラティヴの関係の特性を炙りだすことにある。

W・G・ゼーバルトにおける博物誌/自然史
鈴木賢子(実践女子大学)

W. G. ゼーバルトの『土星の環――イギリス行脚』(1995)において、第二次世界大戦後のイギリス東海岸地方を旅するゼーバルトのナレーターが感応しているのは、往時の支配階級の抱いたような廃墟のポエジーではなく、大英帝国近代の暴力の爪痕であり、人も物も自然もゆっくりと朽ちて崩壊していく風景である。だが、「文明の没落」と「自然の崩壊」はゼーバルトにおいて、どのように連動させられているのだろうか。

発表者は今回、ゼーバルトにおける「自然史」への擬態と逸脱という戦略について考察してみたい。ゼーバルト作品には、いかにも古色蒼然とした19世紀的 な博物学の体裁で動植物の写真がコラージュされ、テクストの中では聞き慣れない動植物や鉱物の名前が図鑑を読み上げるように連呼される。しかし『土星の環』ではこの博物学的な態度も、ルネサンス的思考に属する17世紀の博物誌によって初めから二重化されているのである。

発表では、19世紀の写真黎明期のイギリス人パイオニア、トルボットの写真と彼のダーウィン・ショック以前の自然観を参照し、トルボットの写真とテクストに結節する言説の歴史的編成について提示する。それを議論の触媒として、ゼーバルトが写真とテクストによって、20世紀末のイギリス東海岸地方の〈時間〉を、人間の側の「自律した歴史」の時間から離れた「自然の歴史」die Geschichte der Naturとして記述していることを示したい。

〈場所〉と記憶──記憶芸術(Gedächtniskunst)の場所をめぐって
石田圭子(東京藝術大学)

ベルリンの街中にはピーター・アイゼンマンの<ホロコースト記念碑>やミシャ・ウルマンの<からっぽの図書館>、クリスチャン・ボルタンスキーの<失われた家>といった、ナチス・ドイツと戦争という負の記憶を想起させる記憶芸術(Gedächtniskunst)の作品が散在している。本発表ではこうした芸術の性格について<場所>という視点から考えてみたい。

この記憶芸術の<場所>について考えるために、まずアライダ・アスマンの記憶論、とくに「リコレクション」と「アナムネーシス」という概念に着目する。 それを手がかりとして、記念碑、廃墟、ゲニウス・ロキの住まう場所といったいくつかの特殊な場所を順次とりあげ、それぞれの場所がどのような記憶を生み出しているのか考察する。その際、とくにゲニウス・ロキとベンヤミンの「身体空間」という概念の関わり、さらに『ナジャ』に描かれるパリの街とそこでのブルトンの試みなどに着目したい。 それらを参照しつつ、記憶芸術の場所とは何か、それはどのような記憶を喚起しうるのかを明らかにしていきたい。

アーカイヴ・アートによる歴史的記憶の表象──ジークリット・ジグルドソン《静寂の前に》
香川檀(武蔵大学)

現代美術においてテクストや写真、モノ(オブジェ)などを連鎖的に並置していくアーカイヴ作品の重要性が注目されている。その一方、「歴史の終焉」と歴史的経験の喪失が取りざたされる思想状況を背景に、逆説的なかたちで1980年代以降、とくにドイツにおいて歴史的過去の記憶を美的経験として想起するアートが前景化されてきた。

本発表は、これらふたつの動向の交差する地点に位置するドイツの歴史アーカイヴ型作品、ジークリット・ジグルドソン《静寂の前に》(1988-2009 年)を取り上げ、その記憶表象の様態をアーカイヴ論の文脈のなかで検証する。この作品は、ハーゲン市の美術館内に常設された空間インスタレーションで、壁面いっぱいに書架に似た棚を200以上設け、骨董市などで蒐集した手紙や写真や公文書など、ナチ時代を中心として現代史に関係する個人的、社会的ドキュメ ントや作家自身の描画・オブジェなど3万点以上を収めたものである。これを、クリスチャン・ボルタンスキーの顔写真や個人名などを採集した作品と比較すると、後者が過去についてのミニマルな指標の列挙であるのに対して、前者は断片的かつ多様なナラティヴとイメージの集積であることが分かる。このような構造的特徴をもつジグルドソンのアーカイヴの意味作用を、ボルタンスキー作品との比較を中心に、19世紀の歴史アーカイヴや、ダダ・シュルレアリスムの反アーカイヴ・アートをも参照しつつ明らかにする。