トピックス 1

若手研究者フォーラム「イメージ(論)の臨界」

本学会会長である岡田温司教授の主催による若手研究者フォーラムは、2007年から年2回のペースで継続されている。そして2010年も、3月6日に第6回、8月28日には第7回が、京都大学にて開催された。以下、各発表の概要を紹介しつつ、フォーラムの報告をさせていただくことにする。

第6回[表象可能性への配慮]

● 西山達也「porosとpolisの形象 —— ヘルダーリンとハイデガーによる『アンティゴネー』翻訳」:
西山さんの発表は、ソポクレス『アンティゴネー』のなかの名高い合唱歌に着目し、「しるし」の有り無しや、不在と現前といったイメージのオン・オフの諸相を浮き彫りにするものであった。一種の撞着語法でもってあらわされるこの反転の形象は、ヘルダーリンとハイデガーの翻訳をいとぐちにして分析される。西山さんはそこから、悲劇において形象が現出すること、そしてそれにまつわる美を問うことの可能性を考察した。

● 三重野清顕「ヘーゲルにおける否定性と形象化の問題」:
三重野さんの発表は、シェリングという補助線を措定した上で、ヘーゲルの芸術作品の制作にかんする思考に焦点をあてるものである。「過ぎ去ることによる絶対者の生成」や「記憶」というモティーフをよすがとして、絶対的主体の自立性を探究したとされるドイツ観念論の、新しい側面に光を当てる分析は、芸術作品を内面性と外面性の閾へと送り出す。これらの考察をふまえた上で、形象化不可能なものの形象化という課題の遂行可能性が検証された。

● 堤裕策「生きられた演劇 —— ミシェル・レリスの憑依論における経験の表象可能性」:
堤さんの発表は、ミシェル・レリスが1957年に発表したひとつの論考に注目し、その民族学的演劇論の理論的射程を明らかにするものであった。当時の時代背景を鑑みると、機能主義的解釈や精神病理学的解釈からも距離をおいたレリスの観点は、とても興味深い。そして、レリスが検討した「生きられた演劇としての憑依」という概念と、それがはらむ「経験の表象可能性」の問題は今日、注目に値するものとして提示された。

● 蘆田裕史「ゆらぐイメージ —— シュルレアリスムにおける衣服=身体の表象」:
蘆田さんの発表は、チェコのシュルレアリストであるトワイヤンの一枚のタブローから論を起こし、アンドレ・ブルトンの「痙攣的な美」という概念が、衣服と身体の諸相といかにかかわり合うかを検証するものであった。分析の対象として取り上げた事例は、シュルレアリスムの周縁に位置した人物の作品群であったため、この発表は結果として、シュルレアリスムの広がりや境界をも指し示すものとも捉えられると言えただろう。

● 松谷容作「身体(運動)の規定 —— 初期映画における映像と身体の関係」:
松谷さんの発表は、初期映画における映像の受容経験に着目し、新たな身体感覚の要請や身体の更新という問題を明らかにする試みであった。とりわけ、ルニョーの歩行運動の比較研究を取り上げ、制御不可能な無意識的運動としての歩行の映像が、進化論的なまなざしで意味づけされていき、同時にそのまなざしが裏切られていく過程の分析は、映像と身体の関係が極めて動的な相のもとに捉えうることを明らかにした。

● 池野絢子「眼差しの期待のもとに —— ジュリオ・パオリーニの初期作品における「作者」について」:
池野さんの発表は、《ロレンツォ・ロットを見つめる若者》というパオリーニの作品に依拠しながら、「作者」の主観性の奪還を目指すわけでも、その匿名性を言祝ぐわけでもないイメージの有り様を提示するものであった。その際に、とりわけ強調されたのが、イメージに「参与」する作者と、イメージを「分有」する観者が、身振りを通して重なるという事実であり、主体の同一性の議論への「もうひとつ」の回答が示された。

● 司会:森田團(西南学院大学・講師)


第7回[アーカイヴ、ヴァナキュラリティ、生成]

● 上崎千「ブルース・ナウマンと〈アーカイヴ的思考〉」:
上崎さんの発表は、ナウマンのヴィデオ作品に着目し、とくにそれが紙面上の印刷として再録されたときに、いかなる現象が観察されるのかを検証するものであった。この作業は、ヴィデオ・アートならびにドキュメンタリにおける「記録」と「表現」のあいだの閾を浮かび上がらせることとなる。上崎さんはそこから、アーカイヴに内在し、かつアーカイヴを形成する、アーカイヴ的思考の存在を提示し、ポストモダニズム期の芸術作品を考察する新たな観点を指し示した。

● 甲斐義明「スナップと日常性 —— 1970年代の「私写真」再考」:
甲斐さんの発表は、「私写真」や「コンポラ写真」という写真表現を、これまでのような写真史内部の言説ではなく、広く同時代の美術批評の言説と比較した上で再定義を試みるものであった。結論では、マイケル・フリードの「リテラリスト・アート」という概念の射程に、スナップ写真というひとつのジャンルを当てはめた際、両者の構造的な類似が浮かび上がる点が提示される。写真史内のナイーブな批評からひとつの写真表現を解き放つ発表であったと言える。

● 河村彩「システムとしての絵画、発見者としての絵画 —— アレクサンドル・ロトチェンコの初期制作をめぐって」:
河村さんの発表は、1919年から21年にかけて発表されたロトチェンコの作品を取り上げ、画家自身が追求した「システム」を検討することから始められた。結果、作品から恣意性を排除するという志向を通して、同時代の美術潮流の課題をしっかりと共有し、発展させたロシア・モダニズムの一側面である。さらに本発表では、この流れが、後の「造形における社会主義」にも接続し得ることが提示された。

● 林田新「新興写真運動とエロ・グロ・ナンセンス」:
林田さんの発表は、1920年代から30年代初頭の写真をめぐる運動にかんして、これまで看過されてきたエロ・グロ・ナンセンスという風潮をいとぐちに考察するものであった。この観点は、写真制作としての新興写真運動に対して、写真受容、もしくは写真使用としての蒐集行為の存在を明らかにする。当時の貴重な雑誌資料をもとに検証される写真蒐集家たちの姿は、当時の都市における、潜在的なイメージ・アーカイヴの様相を雄弁に証言するのであり、写真史を多角的に理解する端緒ともなるであろう。

● 信友建志「in/consistant 「想像的なもの」の変容と《他者》の享楽」:
信友さんの発表は、ジャック・ラカンにおけるイメージの取り扱いを、主要概念のひとつである「想像的なもの」の意味づけの変遷を追うことを通して検証する試みであった。「傷」「アナモルフォーズ」「対象a」といったイメージのなかの染みとなる3つの概念は、イメージと主体の関係を分節化したラカンは、最終的に、イメージと身体を重ね合わせていくこととなる。信友さんは、「想像的なもの」の一貫した具体的なものという意味づけが、主体とイメージの関係にもたらす問題をつまびらかにした。

● 山内朋樹「新しい庭園は人間なしでつくられるのか —— ジル・クレマンの庭園と思考」:
山内さんの発表は、現代フランスの庭師であるクレマンの提唱する三つの理念、すなわち「動きの庭」「地球規模の庭」、そして「第三風景」の分析を通して、見捨てられた「荒れ地」にも新しい庭園の萌芽を見いだすクレマンの庭園論を検証するものである。空間を管理することで時間を消去するような伝統的な庭園ではなく、時空間の堆積を提示し、混淆に開かれたものとしての庭園は、生物学的水準の事象を、人間の活動に組み込むための豊かな企てとも取れるものであった。

● 司会:平倉圭(横浜国立大学・講師)


第6回、第7回のいずれも、個別発表のあとに共同討議の場が設けられた。第6回は、森田さんが司会を担当された。そして、身振りや演技が制作と受容のそれぞれの論理のあいだに位置する可能性や、形象を可能にする境界条件としての時間性、わけても中間休止の問題をめぐって、各発表者が議論を交わした。第7回では平倉さんによる司会で、人間を「乗り越えていく」、もしくは人間を「否定する」場所や技術について、「墓」「墓穴」というイメージをめぐって議論が展開した。また、その議論の梃子として類似性と同一性の齟齬も取り上げられた。それぞれ、フロアからも活発に質問や感想が出るなど、充実した討議であったが、とりわけ印象的であったのが、一見して共通項の見いだしにくい各発表にかんして、それらを繋ぐ観点を提示して鮮やかに議論をリードされたふたりの司会であった。(報告:杉山博昭)