研究ノート 堀 潤之

イメージの社会主義
――『ゴダール・ソシアリスム』をめぐって
堀潤之

『ゴダール・ソシアリスム』(原題Film Socialisme, 2010)は、『映画史』以降のゴダールの作品で、まぎれもなく最も力強く、ラディカルで、密度の濃い作品である。「フィルム」によって「社会主義」を振り返る、あるいは来るべき「社会主義」を展望すること。「フィルム」によって「社会主義」と表裏一体の「資本主義」を撃つこと。あるいは、この「フィルム」こそが「社会主義」そのものにほかならないと強弁すること。20世紀を考えるために避けて通ることのできない「フィルム」と「社会主義」という2つのタームを合わせ鏡にしたこの喚起力のあるタイトルは、すでにそれだけでさまざまな連想を誘う。

だが、ここで「フィルム」として名指されているものは、実のところ、多種多様なイメージの異種交配に強引に与えられた仮称にすぎない。基本的には全編がデジタルのHDカムで撮られたというから、そもそもは「フィルム」ですらない『ゴダール・ソシアリスム』には、最後の第3楽章を中心にかなりの数の他の劇映画や記録映像からの引用がちりばめられているが、それだけのことならば、『アワーミュージック』冒頭の「地獄編」や『映画史』全編でやられていたこととさほど変わりはない。圧倒的なのは、地中海を巡航する大型客船コスタ・コンコルディア号を舞台とする第1楽章における諸々のイメージの混在ぶりである。資本主義の戯画といって差し支えない、乗客たちがレストランや大音響の鳴り響くディスコで余暇を過ごす姿が、携帯電話かデジカメの動画機能で撮られたとおぼしき低解像度の映像によって掠め取られ、船内のキッチュでどぎつい色彩がよりいっそう際立たせられている。プールの脇にある大型スクリーンから、明滅するスロットマシーンを経て、ネットから取ってこられた2匹の猫の映像や、チェーホフの『三人姉妹』映画版の末尾を映し出すラップトップの画面まで、本作は今日的な映像環境を再現する。その荒々しさは、ステレオを駆使した音響効果のまれに見る獰猛さと相まって、ときに「フォーヴィスム」的と形容されもした『愛の世紀』後半のデジタル加工された原色の光景がもたらす驚きを易々と凌駕する。

圧倒的な速度で猛り狂う映像とノイズの奔流をたびたび堰き止めようとしているかにみえるのが、頻出する「写真」のモチーフである。第1楽章の主な登場人物の一人である青年マチアスはどうやら写真家であり、しょっちゅうオリンパスのカメラを構えては静止画像を採取している。船内では乗客やスタッフによってしばしば記念撮影が行なわれ、そのフラッシュの閃光が時おり画面を覆い尽くす。大型客船は、夥しい量のイメージが生産される場でもあるのだ。音楽で言えば緩徐楽章に相当する第2楽章――そこでは、2人のTVクルーがマルタン一家の取材に当たっている――でも、黒人女性が操作するTVカメラが遍在していることを思えば(さらに、リュシアン少年がルノワール風の絵を描いていることも考え合わせれば)、ゴダールが本作で映像の生産過程そのものを主題化しようとしていることは明らかだろう。

「写真」のモチーフがとりわけパレスチナと結びつけられていることにも留意すべきだ。そこにはもちろん、本人としても登場するパレスチナ人の著述家エリアス・サンバールが2004年に編纂した秀逸なアルバム『パレスチナ人:1839年から今日までの土地とその人民の写真』の存在が谺している――第3楽章の「パレスチナ」のパートは、「パレスチナが最初の写真家を迎え入れたのは1839年である」というこのアルバムの文章からの引用とともに、何者かの手が旧式の写真機を弄くる映像が引用されている(図1)。そして何より印象的なのは、第1楽章でのサンバール登場シーンのすぐ後で、パレスチナ人女性がハイファ湾を望む最初期の白黒写真を手にしながら「愛しの土地よ、お前はどこにいる?」とアラビア語でつぶやき、おもむろにデジカメを取り出して、カメラ(=観客)に向かってシャッターを切ると、画面が一瞬だけ静止するシーンだろう(図2)。これは、写真の誕生直後からオリエンタリズム的な好奇の視線にさらされてきたパレスチナが、みずからの映像を奪還しようとする抵抗の身振りなのかもしれない。

本作における写真も含めた諸々のイメージの異種交配を、ジャック・タチの「喜劇の民主主義」に倣って、「イメージの民主主義」と呼んでもいいかもしれない。むろん、タチの言う「民主主義」が、喜劇役者と一般人の階層秩序を廃棄するとともに、画面に対する「平等に漂う注意」を観客に要請するきわめてラディカルな観念だったのと同じように、「イメージの民主主義」も「フィルム」の特権性にこだわるのを止めて、おのれの存在を認めよとけたたましく迫ってくる現代のあらゆる種類のイメージにひとまず声を与えようとする捨て身の戦法である。さらに、本作にはデジタル・イメージの存立基盤を暴露する興味深い細部がある。第1楽章の船内のインターネット・コーナーで、ともに失われた〈スペインの黄金〉の行方を追うフランスの諜報員とロシアの諜報員が、鍵を握っている老人のオットー・ゴルトベルクについての情報を交換するシーンで、数度にわたって画像と音声が乱れるのだ(図3、図4)――誰もが一瞬、映写ミスを疑うだろうが、このような乱調が映写段階で生じるはずはないと思い直す。このデジタル的な乱調をあえてフィルムに残すことで、ゴダールはデジタル時代の映像に対する「つなぎ間違い」を敢行しているのである。

こうした試みが、単なる美学的な反抗にすぎないわけでは決してないことは、第2楽章に目を向ければすぐさま了解されよう。ガレージを営む「マルタン一家」(これが対独レジスタンス組織の名称でもあったことが、この楽章の最後で明かされる)は、両親のどちらかが郡の首長選挙に立候補するということで、フランス3からジャーナリストの白人女性とカメラ担当の黒人女性が取材に来ている。だが、自由・平等・博愛についての議論を交わすことになっている2人の子供、フロリーヌとリュシアンは、なぜ両親ではなく自分たちが立候補できないのかと真剣に問いかける。ともに8月4日に生まれたという設定によって、この姉弟はあらゆる封建的な特権を廃棄したフランス革命初期のあの夜、すなわち1789年8月4日の夜に直結している。背景のラジオかテレビからは、地方公共団体の整理・再編(という名の定数削減)に留保を付ける県会議員の意見表明が聞こえてくる。こうしたことから、ここでは民主主義の諸原理と代議制をいわばその〈原光景〉にまでさかのぼって根源的に再検討することが目論まれているのは明らかだ。さらに、マルタン一家を取り巻くラマや馬といった動物たち――この映画には冒頭の2羽のインコから第3楽章のフクロウや羊やワニに至るまで、実に多くの動物たちが登場する――の存在は、ゴダールの長年にわたって未実現の構想である『動物たち』――社会主義者たちが握った権力が、女性、子供、動物たちによって順番に打倒されるという寓話――を強く想起させる。『ゴダール・ソシアリスム』は、いまだ達成されていない人間たちのあいだの平等のはるか先を見通しているかのようだ。

こうした脈絡を考慮に入れるならば、ゴダールが単にあらゆる種類のイメージにラディカルな平等性を付与する「民主主義」の段階にとどまることなく、言うなれば「イメージの社会主義」を志向しているのも至極当然だろう。本作の末尾付近で、著作権侵害に対するFBIの警告文が不意に登場し、それに続けて「法が正しくないときには、正義が法よりも優先される」という文字がディゾルヴによって示される。このように知的所有権を挑発的に否定するゴダールは、違法ダウンロードを禁止するフランスのアドピ法にも反対の立場を鮮明にしており、大量のMP3ファイルのダウンロードによって2万ユーロの罰金を科せられたジェームズ・クリマンなる人物に1000ユーロを寄付するという支援活動さえ行っている。「フィルムの社会主義は、所有権という観念を掘り崩すことに存している。まずは作品の所有権からだ…。作品の所有権などというものがあってはならない」(『レ・ザンロキュプティーブル』誌のインタヴューより)。政治・経済的な水準できわめて窮屈な現在の映像環境にドン・キホーテ的に立ち向かうこうした抵抗の身振りに、『ゴダール・ソシアリスム』が直結していることを忘れてはならない。1990年代以降の作品に色濃く漂っていたメランコリーをすっかり払拭したかにみえる本作は、その兇暴さを孕んだ若々しい苛立ちによって、間違いなく新境地を切り開いている。

※『ゴダール・ソシアリスム』の公式サイトは こちら。12月18日より、TOHO シネマズ シャンテにてロードショー。なお、キャプチャー画像はWild Side Videoから販売されているDVDによる。

堀潤之(関西大学)

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図4