第10回大会報告 シンポジウム:爆発の表象文化論

シンポジウム:爆発の表象文化論|報告:橋本一径

2015年7月4日(土)
早稲田大学小野記念講堂

13:00-14:00
Bruce Conner, Crossroads (1976)

解説:Markus Nornes (University of Michigan)

14:15-16:30
シンポジウム:爆発の表象文化論

パネリスト:
・19世紀日本における硝石・火薬/福田舞子(大阪大学)
・地雷戦──中国の画報・映画・連環画における閃光と爆発の像/田村容子(福井大学)
・舞台における爆発とその総合芸術的快楽/北村紗衣(武蔵大学)
・メタファーとしての爆発──20世紀初頭における都市表象をめぐって/菊池哲彦(尚絅学院大学)

【司会】橋本一径(早稲田大学)

舞台芸術や映像作品、さらには現代アートまで、「爆発」の表象は枚挙にいとまがない。しかしこの「爆発」の表象についてを、ジャンル横断的に検討してみせた研究が、これまでのところ皆無であるのはなぜなのか。このような素朴な疑問から出発した本シンポジウムは、近代において「爆発」と「表象」との関係に生じた、本質的な変化を浮かび上がらせることを目指すものでもあった。19世紀にダイナマイトなどの発明により巨大化した爆発を、写真が記録できるようになるためには、セルロイド製フィルムという、それ自体が強い可燃性を持つ素材の発明が欠かせなかった。この例に典型的なように、近代以降の「爆発」とは、単に「表象」されるものにはとどまらず、両者の間には、ある種の共犯関係が成立するに至ったのではないか。

1946年の米海軍によるビキニ環礁での水爆実験の映像をモンタージュして作られたブルース・コナーの作品『Crossroads』(1976)は、このような問題提起を視覚化してみせた作品と言えるだろう。上映に先立ってのマーカス・ノーネス氏の解説によれば、1946年の水爆実験を、実際に多くのカメラとともに目撃した人々は、その爆発が想像したよりも地味であったために、落胆の声すらあげたという。コナーの作品の前半部に聞こえる爆音は、パトリック・グリーソンがシンセサイザーで合成したものであることが示唆するように、『Crossroads』には、実際の爆発に居合わせた人々が目撃することを望んだ、「真の」爆発が映し出されていると言えるのかもしれない。言うなればそれは表象の中にしか存在しない爆発である。時として美しくすら見えるこのような表象としての爆発を、「崇高」などの議論に還元することなしに論じるには、いかにすればよいのか。コナーの映像が暗黙のうちに投げかけるこの問いは、シンポジウムを通して私たちがたどり着いた課題を、先取りするものでもあった。

映像の上映に引き続いて、まずは福田舞子氏が、「19世紀日本における硝石・硝薬」と題する報告を行い、火縄銃とともに日本に伝来した火薬が、江戸期においてどのように国内で生産されていたのかを、科学史的な観点から振り返った。天然の硝石を得られない日本での人工硝石の製造は、17世紀初頭にはすでに始まっていたが、平時には薬としての需要のほうが大きく、江戸幕府の治世の安定期には、火薬の貯蔵庫の近くで花火をしたために厳重注意が下されるというような、長閑なエピソードも伝えられている。しかし1860年頃を転機に、軍事技術の革新や異国船の来航にともなって、火薬製造は近代化へと大きく舵を切る。火薬の大量生産に伴って事故が頻発し、また江戸幕府は自ら硝石の製造に着手した。幕府が設けた火薬製造所の多くは、明治陸軍に引き継がれた事実は、明治維新をまたいでの技術史的な連続性を裏付けるものとして興味深い。

田村容子氏は、「地雷戦──中国の画報・映画・連環画における閃光と爆発の像」と題して、抗日戦争を描いた映画などで表象される地雷の爆発の表象を分析してみせた。中国人の民兵や農民が巧妙に仕掛けた地雷に、次々と倒される日本兵の姿を、コミカルに描いた映画や連環画(1頁に1コマの図版の入る絵物語)には、田村によれば、民間伝承や古代からの呪術的感性が残存しているという。地雷によって敵を制圧するというイメージは、地中の妖を制圧した証として建てられた「雷峰塔」の慣習と、暗黙裡に結びついている。また雷神がしばしば龍の姿として表象されたように、火器のイメージは龍や蛇の表象と結びついていた。田村が明らかにしたのは、爆発や鉄道事故のような、近代において新奇なものとして好んで描かれた表象が、龍や蛇などをめぐる古来の伝承の中に、その都度取り込まれてきたことである。

続いて北村紗衣氏は、「舞台における爆発とその総合芸術的快楽」と題して、西洋演劇史の観点から、舞台上で爆発がどのように表象されてきたのかを振り返ることで、舞台芸術における爆発の表象の争点を浮き彫りにしてみせた。中世の聖史劇以来、舞台においては、同時代のテクノロジーを駆使しながら、様々な爆発が表象されてきたが、それは劇場火災という演劇にとっての宿痾と常に隣り合わせであった。では舞台での爆発はどうあるべきなのか。この問いは今日の舞台芸術において、大規模な装置を用いて爆発を積極的に可視化する傾向と、むしろ観客の想像力にのみ訴える傾向との対立を生み出している。そして爆発を積極的に描き出そうとする演出が、見世物的と見なされる傾向は、テーマパーク的、パジェント的な見せ方を蔑視する傾向と結びついている。つまり舞台における爆発の表象は、「演劇とは何か」という問いを内包しているのである。その上で北村は、舞台芸術は映像に比べて、観客の触覚や嗅覚などにも訴えかけられるという利点があるにもかかわらず、それが必ずしも活用しきれていないこと、また危険性の表象は、一時的に観客のコミュニティを形成しうることなどを指摘しながら、演劇にとって爆発の表象が持つ可能性を提示した。

最後に登壇した菊池哲彦氏の、「メタファーとしての爆発──20世紀初頭における都市表象をめぐって」と題した報告は、三氏による個別的な事例についての報告に、思想史的な奥行きを与えるものだった。菊池が出発点としたのは、ドイツの表現主義画家ルートヴィッヒ・マイトナーが「大都市を描くことについての手引き書」(1914)に記した、「爆撃」というキーワードである。街路は「爆撃」によって構成されると語るマイトナーの描く都市が、黙示録的な様相を示している一方で、その同じ都市を「真の家郷」とも語るマイトナーの矛盾を、菊池はフロイトの「不気味なもの」やベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」と結びつけながら解きほぐしてみせた。さらにこの「爆撃」を映画の「運動」と結びつけ、映画における「爆発」が、精神分析や複製技術によって彩られる世界認識のメタファーとして機能していることを指摘した菊池の報告は、「爆発」を無限にスペクタクル化し続けようとするハリウッド的な表象が、ある種の反復脅迫として読み解きうるということを示唆するものであった。

続いて行われた質疑応答では、今回のシンポジウムで扱われた爆発は言わば「小さな爆発」で、コナーの映像に見られた水爆実験のような、真に現代的な「大きな爆発」については扱われなかったのではないかとの疑問が提起された。しかし本シンポジウムを通して浮き彫りになったのはむしろ、そのような「大きな爆発」を、伝統的な表象に還元したり、反復脅迫的にスペクタクル化したりすることによって、「小さな爆発」に還元しようとする欲望の存在である。そうした根強い欲望を超えて、表象文化論は、「大きな爆発」と真に向き合うことが、果たしてできるのであろうか。このような、まさしく大きな課題をつきつけられたことこそが、本シンポジウムの最大の成果である。

橋本一径(早稲田大学)

【上映概要】

アメリカのアーティスト、ブルース・コナー(Bruce Connner, 1933-2008)が1976年に制作した映像作品『Crossroads』は、米海軍が1946年のビキニ環礁の水爆実験を撮影したフィルムを再編集したものである。TNT火薬23,000トンに匹敵するという爆発を記録したその映像は、観る者に対し、爆発の表象の(不)可能性についての問いを投げかけずにはおかない。Markus Nornes氏(University of Michigan)の解説とともに上映する。

【協力】The Conner Family Trust

【シンポジウム概要】

爆発は熱、光、風などを伴う破壊的な現象であり、人間の生活や自然環境に甚大な被害をもたらす脅威である一方、その五感をくすぐる派手な姿は、あるときは恐怖の源として、あるときは視覚的快楽をもたらす危険な美として、さまざまな象徴体系と結びつきつつ人々の想像力をかき立ててきた。また初期のフィルムの原料であるセルロイドに含まれるニトロセルロースが、爆薬の原料でもあることを考えれば、近代以降、爆発とその表象との結びつきは、より深いものに変化したのだとも言える。今日、特殊効果技術の発展の恩恵を受け、映画、テレビ、絵画、舞台芸術、音楽、文学などさまざまな媒体が多様な爆発表現を行っており、またそうした表現は一定の人気を博している。しかしながらメディアに多様な姿で表れているにもかかわらず、爆発についての学問的分析は科学技術の分野のものがほとんどで、文化や芸術の視点から具体的に爆発を論じることはそれほど盛んに行われているわけではない。また、先行する業績の多くは特定の分野内でしか知られておらず、文化や歴史を持つものとしての爆発について学際的な考察を行う機会はそれほどなかった。本シンポジウムにおいては、さまざまなメディアや芸術に登場する爆発の表象を文化史的な観点から検討することで、爆発というとらえがたい現象を多角的に分析することを目指す。

【発表概要】

19世紀日本における硝石・火薬
福田舞子(大阪大学)

黒色火薬の発明以来、火薬は火器をはじめとした様々な用途で使用されてきた。日本へは火縄銃とともに伝来したとされ、火縄銃と同様、伝来当初からその調合法が注目された。本報告は、火器の使用が再び活発となる19世紀に着目し、火薬およびその原材料のあり方を通じて、当時の社会と火薬の関わりについて考察するものである。

地雷戦──中国の画報・映画・連環画における閃光と爆発の像
田村容子(福井大学)

中華人民共和国のプロパガンダメディアとしての映画や連環画(絵物語)には、1950年代から70年代にかけて、地雷を描く作品がいくつか見られる。本報告では、映画『地雷戦』(1962)とその連環画作品に注目し、地雷をめぐる描写の変遷を考察する。また、「地中に埋められる」という地雷の特性と中国の民間伝承、19世紀の画報(絵入り新聞)における爆発表現などとの関連を探る。

舞台における爆発とその総合芸術的快楽
北村紗衣(武蔵大学)

本発表においては、’Liveness’が最大の魅力とされることが多い舞台芸術において、今までそれほど注目されてこなかった火気の使用、とくに爆発表現に注目し、舞台において爆発を実演することの芸術的メリットとデメリットを論じる。第一部においては、舞台芸術、とくに欧州の舞台における火薬の使用について歴史的な実績を確認する。第二部においては、現代の舞台においては爆発はどのように表現されているかを検討する。

メタファーとしての爆発──20世紀初頭における都市表象をめぐって
菊池哲彦(尚絅学院大学)

本報告は、20世紀初頭、新たな視覚表象を論じる言説が、都市を「爆発」のメタファーで捉えることに注目し、メディア文化史的視点からその様相を考察する。ドイツ表現主義の画家ルートヴィッヒ・マイトナーによる印象派批判や、都市交響楽映画と密接に関連しているヴァルター・ベンヤミンの複製技術論など、20世紀の新たな視覚表象を論じる言説は、都市を爆発にかかわるメタファー(「爆撃」や「ダイナマイト」)を用いて論じている。爆発のメタファーで表象される都市の視覚性のありようを、特に当時の視覚メディアとりまく状況との関連で示してみたい。