第10回大会報告 パネル6

パネル6:歌う声のレゾナンス/ディソナンス──身体・自然・欲望|報告:白井史人

2015年7月5日(日) 16:30-18:30
早稲田大学戸山キャンパス32号館1階127教室

「言葉」から「身体」へ──J・マッテゾンにおける「声楽優位論」
岡野宏(東京大学)

声の誘惑とその反響/連鎖──南米アンデスのセイレーン信仰における欲望の問題
相田豊(東京大学)

歌声の内的聴取──記憶の声と歌われた声のあいだで起こる身体的ノイズ
堀内彩虹(東京大学)

【コメンテーター】白井史人(東京医科歯科大学)
【司会】長木誠司(東京大学)

これまで表象文化論学会では、近現代詩、オペラ、歌曲、演劇などの様々な観点から声をめぐる問題が扱われてきた。本パネルは、そうした成果を踏まえつつ、「声を発する/聴き取る」という行為に立ち戻り、時代・地域が異なる事例を検討するものであった。

岡野宏氏(東京大学大学院/比較文学比較文化)の発表(「「言葉」から「身体」へ──J.マッテゾンにおける「声楽優位論」」)は、18世紀前半から半ばのドイツで活動した音楽家・ヨハン・マッテゾン(Johann Mattheson, 1681〜1764年)を取りあげた。18世紀の音楽美学を専門とする岡野氏は、作曲・演奏・理論と幅広く活躍したマッテゾンの著作を綿密に読解し、「声楽」の「器楽」に対する優位を唱えるマッテゾンの「声楽優位論」が、発声機構の自然的特質への着目によって基礎づけられている点を明らかにした。マッテゾンによれば、「驚異的なパイプ」である喉は、息を「圧縮し、圧迫し、巧妙に形成することが出来る」(マッテゾン『完全なる楽長』、1739年)神によって与えられた自然的道具である。人の声は音域や旋律進行上の制約を持つが、その「制約」にこそマッテゾンが発声機構に見出す「自然」概念の本質があると岡野氏は主張した。

同時代にも声楽の優位性は提唱されていたが、その際には、「言葉」、つまり「概念」を伴い表現内容を持つ点で声楽が優位なものとされてきた。岡野氏によれば発声機構に基づく立論はマッテゾン独自のものである。さらに、その議論には同時代の解剖学的見地や、ロックらの自然思想が反映されている。マッテゾンの論が持つ特異性を明らかにすると同時に、食道発声法などの現代の声の技法を巡って交わされる「身体と声」の関わりの議論にも通じる現代性を示唆する発表であった。

続く、相田豊氏(東京大学大学院/文化人類学)の発表「声の誘惑とその反響/連鎖――南米アンデスのセイレーン信仰における欲望の問題」は、南米のアンデス地域において、時代やメディアを横断して変容するセイレーン表象を検討した。キリスト教布教のための聖体神秘劇、植民地時代の図像・文献に関する研究や、民俗学者による聞き取り、歴史学者・ジャーナリスト・政治家であるカルロス・メサ・ヒスベルトによる評論、さらに映画『悲しみのミルク(原題:汚された乳 La teta asusutada)』(監督:クラウディア・リョサ、2009年)へと論述の対象を移しながら、ヨーロッパ由来と考えられるセイレーン信仰の、アンデス地域における「反響/連鎖」の系譜を辿った。

それぞれの事例で描き出されるセイレーンの姿と声は多様である。「その声と美貌という二つの毒」(カルデロン・デ・ラ・バルカ『サルスエラの谷』、1665年)、「川岸の洞穴から月明かりのもとに小さな女が姿をみせ、美しい声で歌っていた」(アンデス山岳地帯で幼少期を過ごした人物・ワマンの回想、1990年)、「昔悪魔と契約した実在の踊り手プルチャカは、踊りを習い覚えるために約束のとおりにセイレーンのもとに夜昼通い、おかげで優れた踊り手になり…」(ワマンの友人の回想、1990年)、などの例が挙げられた。さらに、映画『悲しみのミルク』では、先住民女性のファウスタが、白人女性のピアニストのもとに女中として働きに出た際に「セイレーンの歌」を口ずさみ、ピアニストによる編曲を誘発する。

以上の多様なセイレーンをめぐる言説のなかで相田氏が強調するのは、アンデスの先住民による信仰において、セイレーンが架空の神話的形象としてではなく、「実在の」精霊として捉えられている点である。そうした観点から、例えばプラトンらの古典的なテクストや図像学的視点からのみセイレーン信仰を捉えようとしたメサのセイレーン理解には偏りがある点を指摘した。さらに、相田氏はセイレーンの声が「コロニアルな非対称な関係を解消するもの」でも「政治的な声を代理=表象するもの」でもないが、その系譜が示す「水平的反響の可能性」を示唆して発表を閉じた。

最後に、本パネルの組織者でもある堀内彩虹氏(東京大学大学院/表象文化論)は、発表「歌声の内的聴取──記憶の声と歌われた声のあいだで起こる身体的ノイズ」で、テノール歌手・指導者として活動した柴田睦陸(1913〜1988年)の発声法をめぐるテクストを取り上げた。1954年に雑誌『音楽芸術』に連載された「発声論」(全4回)において柴田は、自らの歌唱経験とそれに基づく身体運動的感覚を通して他者の発声を聞き分け、日本人音楽家が陥りがちな西洋音楽の発声法の誤りを身体運動的観点から独自のことばで記述した。

柴田が強調するのは、呼吸法や音声学的知見とは異なるレベルで、発声という行為が「私達の声をとおし、如何に知覚されるか」(『音樂藝術』「発声論2」)という点である。その際に、「息が声帯を通過して音を出し、各共鳴腔で拡大される、という身体的運動の「自然な」エネルギーの発声の結果として生れる「共鳴」と、「人工的に」力を加えて奪う「共振」を区別する。

堀内氏は、このように内的感覚として記述される「共鳴/共振」の区別は、実際に発声されて他者の耳に届く時にどのように聞き分けられるのかという観点から、柴田の「発声論」を「聴取論」として読み直すことを提案する。堀内氏は、柴田は、他者──特に、生徒──の発声を聴き取る際に、柴田自身の身体の内的運動の記憶を呼び起こすことでその身体運動の状態を判断し、「共鳴/共振」の区別を行っていた可能性を指摘する。こうした読解をフースラーやスンドベリの発声に関する生理学的・現象学的議論へと接続しながら、身体運動とその記憶によって生じる発声と聴取の相互干渉のあり方を明らかにした。

本パネルは、これまで音楽美学、音楽教育論、民族音楽学など、異なる方法論や問題設定の枠内にあった対象を一つの議論の俎上に載せた点でも意義深く、質疑応答も活発に行われた。各発表の鍵概念となった「自然」に関する白井のコメントに対する発表者の応答を通じて、声を発する身体の「自然さ」は、「共鳴」や発声機構などの物理的特質に基礎づけられている半面、地域・時代ごとの言語や歴史的文脈に色濃く左右される点が発表者から説明された。さらに、会場との議論を通じて、声を聴き取る際に生じる身体的記憶の干渉という事態は、職業歌手の鍛練に基づく経験に限らず、あらゆる声を巡る身体的経験に敷衍可能である点が示唆された。また相田氏が提示した様々な事例に関して、「反響/共鳴」によって生じるセイレーン像の揺れに示される「混血性」と「先住民性」の政治性位置付けが問われた。

本パネルでは、いずれの発表も言説資料を分析対象としていたが、声を扱う記譜法の検討、音声資料、声を用いた実践(パフォーマー、トレーナーetc)に関するヒアリング、現地調査など、言説以外の資料の分析も組み合わせた研究も今後の展開として有力であろう。また、堀内氏が発表で言及した発声機構の随意性/不随意性をめぐる議論や、会場から指摘された発声の音量や声を用いたパフォーマンスとの関連など、今後の「反響/連鎖」を刺激するパネルとなった。

白井史人(東京医科歯科大学)

【パネル概要】

〈わたし〉は〈あなた〉と同じ〈声〉を聴いただろうか。
音楽研究において人の声は、身体そのものを楽器にするという点において他の楽器とは異なる、特別な「音」として扱われてきた。それは聴くという行為においても同様である。にもかかわらず、歌う声を聴くという行為が未だはっきりとした輪郭を持たないのは、われわれ人間が〈声〉という楽器を知りすぎていることと不可分ではない。

われわれは自らの身体的運動を通じて〈声〉の生成プロセスを熟知しており、声を聴くときでさえ、その経験はわれわれを放っておいてはくれない。メルロ=ポンティが身体の理論を知覚の理論へと〈翻訳〉したように、声の知覚においても身体は〈きく〉ために準備されている。ゆえに、歌われる声は他の楽器の音にはない生々しさをもって、われわれの前に現前し、その経験はしばしば五感の境界を曖昧にして「音を聴き、判断する」という音楽的技能を鈍らせる。そして、歌われた声は、身体的経験を通じて聴く者にとって把握可能な意味の連なりとしての〈物語〉へと変換され、〈きかれる〉。バルトが〈声の肌理〉ということばに含めた、歌い手への〈欲望〉は、声に内包された生の〈物語〉ではなかったか。

本パネルでは、歌う行為と聴く行為はいかに〈交叉〉するかという問いのもと、二つの行為を媒介すると考えられる身体・自然・欲望というキーワードを通して、美学的、人類学的、現象学的立場から歌う/聴く行為のレゾナンス/ディソナンスについて検討する。(パネル構成:堀内彩虹)

【発表概要】

「言葉」から「身体」へ──J・マッテゾンにおける「声楽優位論」
岡野宏(東京大学)

本発表は、18世紀前半から半ばにかけて活躍したヨハン・マッテゾンの「声楽」を巡る音楽美学を検討対象とし、そこに存在する「声楽優位論」の様態を考察するものとする。もっとも、中世いらい西洋においては器楽に対する「声楽優位」の思想が存在しており、これは18世紀半ばの時代状況においても変わることがないものであった。一般的な美学思想史においては、こうした状況が変化し、器楽に美的優位が与えられるのが18世紀末から19世紀初頭にかけての初期ロマン主義運動においてとされる。

本発表でとりわけ検討したいのは、マッテゾン(元々オペラ歌手でもあった)の思想はこうした一般的なものとしての「声楽優位」思想とは異なったものなのではないかという点である。両者の違いとしてポイントとなるのが、「声楽」とは「言葉」による芸術なのか「身体」による芸術なのかという位置づけの問題である。それは「声」が何を伝えているのか、あるいは「声」を通じて、何らか情動が喚起されたり、「快」感情が生じたりするとして、それは何によってなのかという問いにつながるものである。

私見では、マッテゾンの「声楽優位論」にみられる「身体」重視の思想は、当時の「自然思想」の潮流のなかに位置付けることができるが、「声楽」が自然的であることがどのように意味づけられているのかを、彼の「喉」への言及から読み込んでいきたい。

声の誘惑とその反響/連鎖──南米アンデスのセイレーン信仰における欲望の問題
相田豊(東京大学)

本発表の目的は、南米アンデスのセイレーン信仰に関わる人々の語りや口承文芸、歌謡、映画、小説などの様々なメディアにおける表象を分析し、歌う=聞くという相互行為における欲望と誘惑のあり方について考察することである。

南米アンデスにおいて、セイレーンは「実際に存在する」精霊として信仰されている。人々は、セイレーンが住むとされる水辺にいって、歌唱や舞踊の力を得たり、セイレーンの歌う声から旋律を取って自身の作曲に取り込んだりする。さらに、近年ではこうした信仰実践そのものをよりメタな視点から題材化した小説や評論、映画などが多数存在している。

この一連の現実/フィクションの重層的なつながりは、セイレーンの「声」が、様々なアクターによって転送され、脱文脈的なネットワークを作り上げていく過程として位置づけることができる。セイレーンは、人々に対して、声というそれ自体は無形のモノを所有し、自ら再現したいという欲望を喚起させる内的な力を有しているのである。

本発表では、ここでの議論を米国の文化人類学者マイケル・タウシグの「最後から二番目性」や「語り手の連鎖」といった鍵概念をもとに再考し、セイレーンの「声」がコロニアルな非対称の関係を孕みつつも、より水平的な反響として「誘惑」の契機をも持ちうる可能性について論じる。

歌声の内的聴取──記憶の声と歌われた声のあいだで起こる身体的ノイズ
堀内彩虹(東京大学)

本発表は、ヴィブラートの聴取を例に、聴覚のみならず自らの身体を通じて行われる聴取の行為、すなわち聴いた声を身体的記憶を参照しつつ「内的に」把握可能なものとして捉えようとする行為を、聴き手による歌声の内的聴取として提示しようとするものである。

昭和のテノール歌手であり発声理論家でもあった柴田睦陸は、1950年代に数回にわたって寄稿した一連の「発声論」の中で、歌声の自然な響き/不自然な響きの区別についての説明として共鳴/共振という二つのことばを独自の意味において用いつつ、それらの運動的境界について言及している。柴田は、共鳴が美しい声の響きを「自然に」生み出すのに対して、共振はむしろその響きのエネルギーを「人工的に」奪うものであると提示した上で、歌い手はしばしば共振を共鳴であると「身体的に」誤って理解していることがあると指摘する。ここで着目すべきは、歌い手が身体の共鳴の結果と認識して提示した声を、身体的他者であるはずの柴田が共振の結果として聴くという点、すなわち歌い手と聴き手の間で起こる身体的なズレである。この時、柴田は歌い手の中に「何を」聴いたのか。

発表者が指摘したいのは、聴き手は歌声の聴取において自らが持つ発声の身体的記憶を参照し、聞こえてくる声と身体的記憶との間のレゾナンス/ディソナンスを「聴いて」いる可能性である。柴田が経験した身体的ノイズを例に、歌声を「聴く」行為における身体的聴取について検討する。