第10回大会報告 パネル4

パネル4:語られるフィクション|報告:山崎健太

2015年7月5日(日) 14:00−16:00
早稲田大学戸山キャンパス34号館1階151教室

朗読の演劇──サミュエル・ベケット『オハイオ即興劇』試論
山崎健太(早稲田大学)

現代演劇における再現の危機と解決:岡田利規の作品における「語り」に対する一考察
關智子(早稲田大学)

語る人々、歌う人々──ミュージカル『ドラウジー・シャペロン』とミュージカルのメタ性へのアプローチ
藤原麻優子(早稲田大学)

【コメンテーター】佐々木敦(早稲田大学)
【司会】山崎健太(早稲田大学)

本パネルでは舞台上で「語る」行為が行なわれる演劇作品を発表者それぞれが取り上げ、各作品におけるその効用を検討した。

山崎健太の発表ではサミュエル・ベケットの戯曲『オハイオ即興劇』(1981)について、劇中で「慰め」と呼ばれる朗読行為が舞台上でいかなる効果を引き起こすのかという点に焦点をあてた作品分析が展開された。舞台上の「読み手」はテーブルを挟んで対峙する「聞き手」に対し、手元の本を朗読して聞かせる。読み上げられるのはかつて別れてしまった「親しい人」からの「使い」が「男」のもとを訪れ朗読を行なうという物語であり、語られる物語は舞台上の「読み手」と「聞き手」の姿と対応しているようにも思われるが、両者がいかなる関係にあるのかは示されない。山崎は朗読される物語の中の対話場面に注目し、語られる物語における「男」「親しい人」「使い」の三人が、組合せを変えながら舞台上の「読み手」「聞き手」の二人の姿に投影されていくという構造を指摘した。かつてあった対話は朗読という行為を通して、つまりは「読み手」「聞き手」の身体を媒介として舞台上に再現される。山崎はそれがかつて別れてしまった「男」と「親しい人」の擬似的な再会ともなるがゆえに、朗読は物語において「慰め」として定義されていたのだと結論づけた。

続く關智子氏の発表では、現代日本演劇を代表する劇作家・演出家の一人、岡田利規/チェルフィッチュの作品を取り上げた。關氏は「ドラマの危機」(ペーター・ションディ)、「対話からディスクールへ」(アンジェイ・ヴェルト)、「ポストドラマ的演劇」(ハンス=ティース・レーマン)といった現代戯曲の理論的背景を踏まえつつ、『三月の5日間』(2004)以降震災以降の岡田作品の特徴のうち、特に「第三者的視点からの語り」と「発話の主体の問題化」の二点に注目する。ブレヒトがその叙事的演劇においてミメーシスを異化するものとして導入した語りという手法は、岡田の作品においては異化効果をほとんど失ってしまうほどに過剰な形で用いられており、その点で岡田の作品は「ポスト叙事的演劇」(ベルント・シュテーゲマン)の系譜に位置づけることができるという。また、発話する主体が自らの一貫性をほとんど放棄しているかのようであるという特徴はサラ・ケインやエルフリーデ・イェリネクなど他の劇作家の戯曲にも見られるものだが、關は岡田の戯曲の特殊性を戯曲によって設定された再現という枠組みの踏み越えに見出だす。岡田はいわゆるリアリズム演劇におけるミメティックな再現への対立項として語りの手法を過剰に用いながら、叙事的な語りの再現、あるいは再現の叙事的な語りという形をとることで、いわばミメーシスとディエゲーシスの間の言語を成立させているのであり、それこそが劇空間と劇場空間をゆるやかに無理なくつなぐための岡田の戦略なのだと關氏は述べた。

藤原麻優子氏はミュージカル『ドラウジー・シャペロン』(2006)を取り上げた。この作品では「椅子に座った男」がミュージカルのレコードをかけるとその情景が男の部屋で上演され、観客は男の注釈を聞きつつ、そのレコードを聞く=上演を見ることになる。男の部屋で「上演」されるミュージカルは一見したところ男の語りによって、あるいは再生されるレコードによって規定されているように見えるが、作品にはそのいずれからも逸脱する瞬間が用意されており、それらの逸脱部分は舞台上の俳優の身体性や、彼らが舞台上で歌っているという事実そのものを強調するように機能する。作品は上演とその身体性を浮かび上がらせるプロセスとしてあり、作品の最後には男とミュージカルの登場人物たちは同じ上演という次元に位置づけられることになる。藤原氏は、『ドラウジー・シャペロン』では男が語ることがフィクションを起動するが、呼びこまれたフィクショナルな存在は、演じること、ミュージカルであることによってそのフィクションを逸脱し、上演へとなりかわるのだと結論づけた。

これらの発表を受け、コメンテーターの佐々木敦氏は三者の発表がいずれも観客の眼前に身体が存在しているという点に重きを置いた分析であったことを指摘し、各々の分析それ自体の妥当性は認めつつも、身体の現前は演劇やミュージカルの存立要件とでも呼ぶべきものであり、そこを到達地点として提示するのでは不十分なのではないか、むしろそこを出発点としつつ、構造に留まらない作品分析を展開することで個々の作品の豊かさが見出だされたのではないかと指摘した。

三者三様の対象を扱いつつ、演劇の本質に関わる点で共通した問題意識がはっきりと見えるパネルとなった一方、佐々木氏の指摘した通り、各々の作品あるいは手法に関する分析は今後の発展の余地を大いに残したものとなった。なお、ここでは触れられなかったが会場との質疑応答においても有益なコメント・質問が多数寄せられたことを書き添えておく。

山崎健太(早稲田大学)

【パネル概要】

演劇のフィクションはいかにして可能か。俳優の身体、発せられる言葉、舞台美術、音響効果。様々な要素によって構築される演劇のフィクションは、常に現実の「今・ここ」と二重写しで提示される。観客は「不信の宙吊り」(コールリッジ)という慣習によって現実を一時的に棚上げし、目の前の舞台上で繰り広げられるフィクションに没頭するのだが、そもそもこのとき、没頭すべきフィクションと棚上げすべき現実との境界はどこに/どのようにして構築されているのか。

本パネルでは「フィクションを語ること」それ自体に焦点をあてた演劇作品の分析を通して、演劇のフィクションがどのようなメカニズムによって立ち上がっているのかを問い直す。サミュエル・ベケット『オハイオ即興劇』では、ほとんど不動の「読み手」によって朗読される物語と舞台上の視覚イメージとが重なり合うことで劇的緊張が生じていく。岡田利規/チェルフィッチュの演劇は、フィクションであることをことさらに強調する形ではじまり、物語を語る俳優は演じる役と俳優自身との間を行き来するかのように見える。ミュージカル『ドラウジー・シャペロン』では、男が再生するミュージカルのレコードの内容が舞台上に再現されるが、男の語る注釈は観客が観る「上演」というフィクションを攪乱していく。語られる言葉とフィクションとの関係を問うことは演劇の原理そのものの探求へとつながっていくだろう。(パネル構成:山崎健太)

【発表概要】

朗読の演劇──サミュエル・ベケット『オハイオ即興劇』試論
山崎健太(早稲田大学)

サミュエル・ベケットの後期演劇の多くは、舞台上のほとんど不動の登場人物と、その登場人物自身による(あるいはどこからか聞こえてくる声による)語りによって構成されている。アナ・マクマランが言うように、舞台上に提示される視覚イメージ(そこにはもちろん俳優によって演じられる登場人物も含まれる)と語られる物語との間に生じる一致やズレの運動、固定することのできない両者の関係がこれらの後期演劇作品に「劇的緊張」を与えていることは間違いない。

ベケット最晩年の演劇作品『オハイオ即興劇』は、テーブルを挟んで向かい合う二人の男の一方がもう一方に対し本を朗読して聞かせることで展開していく。他の多くの後期演劇と同じように、語られる物語は舞台上の視覚イメージと一致していくのだが、『オハイオ即興劇』では本の朗読という位相が加わることで構造はより複雑なものとなっている。

本発表では、『オハイオ即興劇』の戯曲分析を通じて、舞台上で語られる言葉/朗読される物語と舞台上の視覚イメージとがどのように関係を結び、その関係がどのように移り変わっていくのかを考察する。登場人物の「動き」がほとんど捨象された舞台でいかなる「演劇」が可能か。変容していく言葉と視覚イメージとの関係の中でフィクションの成立するその瞬間を捉えることを試みたい。

現代演劇における再現の危機と解決:岡田利規の作品における「語り」に対する一考察
關智子(早稲田大学)

本発表では、岡田利規の作品における登場人物による「語り」の手法を分析し、現代演劇における再現=表象(representation)の危機とその解決について論じる。

20世紀半ば以降、ヨーロッパを中心に、登場人物による出来事の「語り」を重視した作品が増えている。しばしば「語りの演劇」、「物語演劇」などと呼ばれるこれらの作品において登場人物たちは、いわば映画の「ナレーション」のように、劇的な出来事が展開される世界とは異なる次元からその出来事について語る。

岡田利規によるいくつかの作品は、その潮流の中に位置づけることができるだろう。代表作『三月の5日間』を筆頭とするその作品群において、登場人物たちは「ハイパーリアル」と評される文体で語り続けており、その言表内容にある出来事が俳優の身体を借りて舞台上で再現されることは指示されていない。

本発表では戯曲分析を通じ、その形式と内容の関係性について考察を行う。なぜ岡田は、必ずしも舞台上で再現不可能な事象(殺人など)ではない、比較的日常的と言える出来事を主題に取り上げながらしかし、それを俳優たちに再現させるのではなく、語らせているのか。その手法によって演劇のフィクションはどのように更新されたのか。以上の問いを経て、岡田の作品に、現代演劇における「不信の宙吊り」の危機を乗り越える可能性を見出すことを試みる。

語る人々、歌う人々──ミュージカル『ドラウジー・シャペロン』とミュージカルのメタ性へのアプローチ
藤原麻優子(早稲田大学)

本発表は、ミュージカル『ドラウジー・シャペロン』(The Drowsy Chaperone)の分析を通じ、ミュージカルのメタ性について一考を試みる。同作は2006年にブロードウェイで上演され、トニー賞では脚本賞・作品賞ほか5部門を受賞している。先行研究では、ラリー・ステンペルやイーサン・モーデンらが同作を2000年代に制作された自己言及的な作品群のひとつと位置付け、小山内伸は「メタ・ミュージカル」と呼んでいる。

たしかに、『ドラウジー・シャペロン』にメタ性を認めることはたやすい。劇の主人公は「椅子に座った男」(Man in Chair)で、彼がミュージカル・コメディ『ドラウジー・シャペロン』のレコードを再生するとその場面が彼の部屋に再現/上演される。つまり劇のミュージカル部分はレコードの再生というかたちで括弧にくくられているし、男は劇中ミュージカルの筋や時代背景、作劇についてコメントしていく。

では、このようにあからさまなメタ性は、何のために劇にもちこまれているのだろうか。本発表では、同作のメタ性が何を指向するのかについて分析を行う。男による膨大なコメントやレコードの再生/上演はフィクションを指向するのか、あるいは現実を指向するのか。劇中の現実においてレコードを聞いていた男は、結末になってなぜレコードの中に登場する飛行機に乗り込むのか。これらの問いから、「不信の宙吊り」に大きく依存するミュージカルにおけるメタ性にどのようなアプローチが可能かを考察する。