第10回大会報告 | パネル3 |
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2015年7月5日(日) 14:00−16:00
早稲田大学戸山キャンパス32号館1階127教室
「異族」との連帯のために──森崎和江の労働運動論と「エロス」のゆくえ
西亮太(中央大学)
「生ぬるい春のような、出口のない閉ざされた天国」──赤瀬川原平の諸著作における都市と芸術
田尻歩(一橋大学)
「オンナ」たちの傷の否認を超えて──崎山多美「見えないマチからションカネーが」を中心に
佐喜真彩(一橋大学)
【コメンテーター】河野真太郎(一橋大学)
【司会】田尻歩(一橋大学)
「芸術家的批判」は、あらゆる抑圧の形態に対して向けられるもので、権威の否定、女性や自然の解放といった内容をもつ。1968年のフランスにおいて教育を受けた若者たちに担われた社会運動においてはじめて、労働条件などの改善を求める「社会的批判」と同等のレベルで芸術家的批判は顕在化したが、その批判が提示した要求は70年代以降の資本主義の形態の変化によって巧妙に回収された。それ以降のリベラリズムは確実に人間の生と性の商品化を押し進めてきており、そしてそれらが問題とされるよりもむしろ自らの商品化の過程に快楽を見いだしていく事態すら見いだされる中で、これに対抗する力として、これまでに実践され、また構想されてきた芸術家的批判を考え直すことが重要であると思われる。
このような問題意識のもと、西氏は、女性と労働の二つの主題が複雑な形で書き込まれている50年代から70年代の森崎和江のテクストを分析し、当時たしかに問題化されていたが、70年代以降の資本主義の進展のなかで忘却されてきた「エロス」の批判的可能性を見いだそうとした。彼女自身親密な関係にあった谷川雁の労働運動論から多大な影響を受けてはいるものの(谷川も「エロス」のエネルギーを評価している)、森崎は彼の労働者主義的・男性中心主義的傾向に対しては当時から批判的な態度をとり続けていた。森崎自身によって明確には分節化されていない以上の二点の批判的視座を明快に描き出しながら、西氏はさらにそれらのテクストに描かれた、性だけでなく人種的にも多様性を有していた炭坑という地下の労働の場に目を向ける。地上からは認識が困難なそのような場で醸成された、「異族との連帯」を可能にする「地下の精神」が現代においてこそ捉え返されるべきであり、それは人間「集団の内的世界の全過程」を「まっとうに知る方法を開拓すること」によって可能であると、西氏は森崎の言葉を用い結論づける。
続けて、田尻氏は60年代から80年代の赤瀬川原平の著作における芸術観と都市の描写の変遷をたどり、それらの変化と連続性を歴史的アヴァンギャルドからネオ・アヴァンギャルドへの移行との関係に即して位置づけ直し、超芸術トマソンの分析をおこなった。トマソンの実践は、社会運動の失速ののちに資本主義への人民の従属が強まり、イデオロギー的な後退が生じる中で、芸術の脱スキル化(アマチュア化)を通しての集団的創造性の共有という、アヴァンギャルドの一要素に再び取り組むものであったと、氏は論じた。
最後の発表者である佐喜真氏は、崎山多美の「見えないマチからションカネーが」の精読を通して、その短編に書き込まれている個人と社会の変革のヴィジョンを描き出した。1972年の沖縄日本「復帰」直後に東京に嫁いでいった(義)妹が、コザで働く(義)姉から(義)母親の死の連絡を受けて、33年ぶりに帰郷する──この短編においては、この過程が全編、姉のモノローグを通して語られる。この特異なテクストを本土と沖縄の二項対立を崩す試みとして読解するのではなく、70年代から2000年代前半までの女性の労働のあり方の変遷を描き出し読み解くことによって、姉妹両者ともがそれぞれ異なった──ただしその暴力の源は同様の──傷を受けていることを佐喜真氏は明示する。氏によればこのテクストは、社会から要請される理想自我の達成を妨害するこの残酷な傷という真実を認識することを通してこそ可能となる(母親が働いていた娼館があった街コザは、社会的な傷であり、ジェントリフィケーションによって隠蔽されている)、社会変革の過程を描いている。
コメンテーターの河野真太郎氏は、一見多様な対象を扱うこれらのトピックを、クリエイティヴな知的労働がモデルとされるポストフォーディズム化以降の資本主義においては「芸術家的批判」と「社会的批判」はカテゴリー的に脱構築されてしまっていることを指摘しながら、苦役としての(女性)労働を認識する必要性という観点から整理した。その認識の試みは西氏が分析した森崎の活動にもっとも簡潔に現れており、そのような批判的可能性の別の試みが赤瀬川や崎山の実践でもあったと河野氏はコメントした。
会場からは、森崎のエロスの詳細を問うもの、赤瀬川の60年代と80年代の差異の詳細を問うもの、崎山の作品分析における傷と音、それらを社会的なレベルで捉えたときの自己変革との関係を問うものなど、議論を発展させるのに有益な質問がなされ、適宜活発なやりとりがおこなわれた。
田尻歩(一橋大学)
【パネル概要】
現在私たちが生きる新自由主義のパラダイムを見事に描き出した『資本主義の新たな精神』においてL・ボルタンスキーとE・シャペロは、資本主義の破壊的傾向に立ち向かう際に重要となる「批判」の二つの側面を「社会的批判」と「芸術家的批判」に大別した。労働環境・労働条件における搾取や貧困などの不平等に対して向けられるとされる「社会的批判」は、近年の日本においても見られるようになってきた。だがその一方で、あらゆる抑圧の形態に対して向けられる「芸術家的批判」は、権威の否定、女性や自然の解放といった内容が70年代以降の資本主義の形態の変化によって巧妙に回収されることにより、現在のところ顕在化しえていない。その時々の資本主義の形態に従って要請される(再)生産労働は、人々の生/性の在り方を規定し、そこにおける彼/女たちの日常生活──それは資本主義形態の地政学的な現れとしての田舎と都会という想像力において営まれる──は葛藤の場として現れる。このような葛藤は、本パネルが分析対象とするテクストに刻印されており、その複雑かつ豊穣な表象は未だ汲み尽くされていない。本パネルでは、人間の生そのものの商品化に抗する「芸術家的批判」と当座のところ呼びうる批判を戦後のいくつかの芸術実践に見出しつつ、真の自由を追求する批判がどのように潜在的な形で営まれ、それらが現在においてどのように救済可能かを思考する。(パネル構成:田尻歩)
【発表概要】
「異族」との連帯のために──森崎和江の労働運動論と「エロス」のゆくえ
西亮太(中央大学)
本発表では、戦時下の朝鮮半島で生まれ育ち戦後の北九州で先鋭的なサークル活動を行った森崎和江の70年代半ごろまでの著作を扱う。この時期は、もと炭坑労働者の女性たちへの聞き書き『まっくら』から、代表作『からゆきさん』に至るまで、出版面では質・量ともに豊かな時期であった。だが実生活では鉱山閉鎖に伴うサークル活動の行き詰まりや組織化に専心する谷川雁との対立などで心身ともに疲弊し、苦慮を重ねる時期でもあった。このことは同時期のテクスト群の内容と形式双方にみられる過剰なまでの先鋭性に確認することもできる。
森崎の議論はフェミニズム的視角の鋭利さにより、これまで家父長的労働運動への批判という点が注目されてきた。もちろん運動内部の男性による排他的集団性も女性たちの内部を走る分断線も、さらには「田舎」の先鋭性を「都会」で説く谷川も批判されるべきなのだが、当時既に失われつつあった合理化以前の坑内についての聞き書きから思考を始めた森崎にとって、女性も働いたかつての坑内で育まれた「エロス」や生活の総体としての特異な「文化」の残滓は、それら運動内外の行き詰まりの中でも完全に失われたわけではなかった。この延長線上にこそ、後に先見的フェミニストと評価された森崎の思想が位置づけられるべきだ。本発表では以上を確認しつつ、テクストの精読を通じて異者たちの出会う想像的空間の追及を一貫したテーマと捉え、その現代的意義を探る。
「生ぬるい春のような、出口のない閉ざされた天国」──赤瀬川原平の諸著作における都市と芸術
田尻歩(一橋大学)
本発表は、赤瀬川原平の初期の政治的な芸術的ヴィジョンと、80年代に展開される「超芸術トマソン」における都市を題材とした活動のあいだの変化と連続性を考察するものである。近年、社会運動の観点から赤瀬川の活動を評価した高祖岩三郎の「たのしやおかしやおそましや」(2014)や、赤瀬川の初期の詩・小説から集団的実践のユートピア的ヴィジョンを析出したウィリアム・マロッティのMoney, Trains, and Guillotines(2013)など、60〜70年代はじめの政治的実践を再評価する潮流は見られるが、それを70年代前半以後、社会運動全体が急速に勢いを失ったあとの赤瀬川の活動との連続性を思考しようとする論考は少ない。いまだ建物の部分として付属・保護されながらもその建築の本来の機能から外れ無用となった「物件」を、作者のいない「超芸術」として赤瀬川が初めて発見したのは1972年だが、60年代末には、批評家松田政男らにより、東京オリンピックや大阪万博などを契機に進む経済成長のもとで広がっていく均質化された風景を批判した「風景論」が展開され、そのような都市批判の言説に赤瀬川も触れていた。本発表では『オブジェを持った無産者』、『鏡の町 皮膚の町』などにおける都市の表象を確認した後、それを背景に、1982年から本格化する「超芸術トマソン」の活動をメディア横断的な集団的実践として分析し、(現在にまで続いている)イデオロギー的後退のなかでどのように芸術実践が試みられたかを考察する。
「オンナ」たちの傷の否認を超えて──崎山多美「見えないマチからションカネーが」を中心に
佐喜真彩(一橋大学)
本発表は、沖縄の現代小説家・崎山多美(1954-)の諸作品に特徴的である「音」の描写に注目しながら「見えないマチからションカネーが」(2006)を中心に読解することで、現代の文化批評の課題を再考する。崎山の描写する「音」の表現はこれまで他者の声の回帰として多くの関心を集め、その解釈は様々になされてきた。しかしそれらの批評のほとんどは、沖縄が戦後置かれてきたコロニアル的状況によってもたらされ目を背けられてきたもの(他者)に、所与の「特殊性」(所与の民族性・女性性・欲望)を見出し、その承認を求めるという多文化主義言説に陥りがちである。こうした批評は、ソ連邦の崩壊を契機としたイデオロギー対立の消滅によって深刻化した、多様な文化を奨励しながら進むネオリベラリズムへの批判が欠落しているため、逆説的に現在の資本主義の発展を補完する形で回収されてしまう。
崎山の小説における「音」は、むしろ所与の「特殊性」というカテゴリーに症候的に現れる「現実的なもの」であり、具体的にそれは、資本主義の進行に従って顕在化しづらくなる「女性」達の傷の顕れとして表現されている。本発表では、「音」の描写が直接的にはほとんどみられない「見えないマチからションカネーが」を中心に考察するが、そこでの女性達の葛藤が他の作品の「音」の描写と不可分ではないことを提示する。これを通して、ネオリベラリズム下における文化的応答の意義を模索したい。