第10回大会報告 ライブ&アーティスト・トーク:Open Reel Ensemble

ライブ&アーティスト・トーク:Open Reel Ensemble|報告:門林岳史

2015年7月4日(土) 17:00-18:30
早稲田大学小野記念講堂

【出演】
ライブ:Open Reel Ensemble
アーティスト・トーク:Open Reel Ensemble(聞き手 草原真知子)

2015年7月4日、表象文化論学会第10回大会初日の最後を飾ったOpen Reel Ensembleによるパフォーマンスは、メンバーの和田永によるギター弾き語りによって幕を開けた。どこかユーモラスなフォーク調の曲は、「オラハシンジマッタダー」のフレーズで有名なザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来た酔っ払い」(1967年)へのオマージュであろう。演奏は舞台後方に置かれたオープンリール・デッキで録音されており、曲が終わると同時にギューンと音を立てて巻き戻され、プレイバックされる。和田はその音に合わせて口パクをしてみせるのだが、プレイバックは、それこそ「オラハシンジマッタダー」よろしく倍速ほどのスピードで再生されるため、コミカルさを加速させることになる。

Open Reel Ensemble(2009年より活動)は、オープンリール・デッキを〈楽器〉として使用するという発想に基づいた作品を発表しているメディア・アートの作家であり、パフォーマンスのユニットである。オープンリール・デッキは、かつて録音・再生メディアとして使用され、いまでは時代遅れになってしまったアナログ機器であるが、彼らはそれを演奏メディアとして復活させる。まさに美術批評家ロザリンド・クラウスが提唱した「メディウムの再発明」を彼らはしているのである(※1)。音声の記録メディアを楽器として用いるという点では、ヒップホップのDJたちが駆使するターンテーブルという先例があり、もちろんOpen Reel Ensembleのパフォーマンスも、ひとまずそうした系譜のなかに位置づけられる。ただし、リアルタイムの録音とプレイバックが可能な磁気テープ・メディアを用いることにより、パフォーマンスの幅は格段に広がり、また、根本的な次元で質的変化が生じている(※2)。円盤形のレコードと異なり、リールに巻きとられる磁気テープの場合、音源の任意の箇所に瞬時にアクセスすることができないが、そのため必然的に生じる巻き戻しや早送りという操作さえ、Open Reel Ensembleはパフォーマンスの一部として巧みに取りこんでいるように思われた。

ライブ&アーティスト・トーク:Open Reel Ensemble|報告:門林岳史

今回のパフォーマンスでは、舞台後方に4台のオープンリール・デッキが並べられていた。向かって舞台左手にはベースとドラム、右手にはDJブースのようなしつらえがある(パフォーマンス後の説明によると8トラックのオープンリール・デッキが設置されていたという)。そして、舞台中央には小型のオープンリール・デッキを含むさまざまな小道具。演奏は、メガホンを通した演者の声、ヴァイオリン、ピアニカ、掃除機(!)など、さまざまな音を録音してはプレイバックし、ループをつくり、回転数を変え、ときにはオープンリールを直接手で触ってスクラッチやビブラート、ミュートのような効果をつくりながら進められる。そのキモは、どうやってそんな音を出しているのか、ある程度は眼で見て想像できるけれども完全には分からない、その絶妙なバランスである。その結果、観客はある種マジックを見ているような気分にもなるだろう。〈なにかタネがあるにちがいない、だがしかし……〉。ドラムセットはカホンと2枚のシンバルのみという簡易な構成であったが、カホンという木製のスツール・ボックスのような楽器をはじめて見た観客には、「あれを叩いてこんなに多彩な音が鳴るの?」という効果をもたらしたにちがいない。それと同種の演出が、オープンリール・デッキやその他さまざまな小道具の使用に張りめぐらされていたように思う。そして、つけ加えておかなければいけないのは、彼らがすぐれて戦略的なメディア・アーティストであるだけでなく、それと同時に、巧みな演奏家としての身体性をそなえているということだ。

パフォーマンスを楽しみながら、ああ、これは海外に持っていってもウケるだろうな、このYMOにも通じる〈日本的なるもの〉の正体ってなんだろう、と思いをめぐらしていた。もちろん、それをセルフ・オリエンタリズムと断じることはたやすいが、もう少しかゆいところに手が届くような言語化を試みてみたくなったのである。そのポイントのひとつとして、舞台後方のオープンリール・デッキを操作しているあいだ、演者は必然的に観客に背を向けているということがある。その結果、どれだけノリノリで演奏していたとしても、裏方に徹するエンジニアのような趣きがどこかただようのである。4人の演者がならんでオープンリール・デッキに向かっているときの姿は、パチンコ屋の光景をも思わせる。彼らはデッキに没入している。パフォーマンス途中のMCでメンバーの和田は「時間を素手でいじっているというこの感覚」がたまらないと口にしていたが、それと同時に彼らのパフォーマンスは、機械に身体を同調させることによって生じる時間性とも深く関わっているように思われる。彼らの姿は、映画『メトロポリス』(フリッツ・ラング、1926)の有名な1シーンにおける、巨大な時計のような機械にかかりっきりで不条理な作業を続ける労働者(の身代わりになる主人公フレーダー)のようなのである。

オープンリール・デッキが伏蔵していた可能性を踏破しつくすようなパフォーマンスは、和田が小型のデッキを抱えて、テープを引っ張り出しながら客席を走り抜ける圧巻のクライマックス──その結果、テープはキューンと異音を発しながら、舞台に投げ込まれたリボンのように宙をはためく──で幕を閉じた。パフォーマンスが始まる前にメンバーは「ライブが終わったら〔観客が〕何人立ってるかな」と挑発していた。それに呼応して、アフタートークで聞き手を務めた草原真知子(早稲田大学)も「ベルリンとかだったら絶対みんな踊りだすよね」と発言していた。残念ながらおとなしい研究者たちが大半を占める聴衆が総立ちになって踊る光景が実現しなかったことを、招聘した学会メンバーのひとりとしてOpen Reel Ensembleの皆さんに申しわけなく思う気持ちもある。だが、舞台上でなにが起こっているのか、身じろぎもせず熱心に観察するこのいかにも〈日本的〉な観客の身体も、それはそれでOpen Reel Ensembleのパフォーマンスにふさわしいものだった気がしないでもない。

ライブ&アーティスト・トーク:Open Reel Ensemble|報告:門林岳史

門林岳史(関西大学)

[脚注]

※1 ロザリンド・クラウスは論文「メディウムの再発明」において、ジェフ・ウォールにおける電照広告やジェイムズ・コールマンにおけるスライド投影のように、時代遅れになったメディウムを作品の支持体として活用する一連のアーティストを分析している。下記を参照。ロザリンド・クラウス「メディウムの再発明」星野太訳『表象』第8号、pp.46-67。

※2 その意味ではOpen Reel Ensembleの試みを、ヴィデオというメディアにリアルタイムのフィードバックという性質を見出した初期ヴィデオ・アーティストたち(ヴィト・アコンチやナム・ジュン・パイクなど)になぞらえることも可能だろう。

【概要】

旧式のオープンリールデッキをコンピュータに接続して楽器として演奏するユニットOpen Reel Ensembleは、近年ではIssey Miyakeのコレクションの音楽を手がけるなど、活躍の場をますます広げている。そのクオリティが海外でも高い評価を受けているライヴ・パフォーマンスを、第10回表象文化論学会の一環として、特別に披露していただく。終演後には和田永氏を中心とするメンバーとともに、アーティストトークを繰り広げる。聞き手は草原真知子氏(早稲田大学)。

【協力】(株)ソニー・ミュージックアーティスツ