新刊紹介 編著/共著 『幻燈スライドの博物誌 プロジェクション・メディアの考古学』

大久保遼・土屋紳一・遠藤みゆき(編著)
岡室美奈子・草原真知子・向後恵里子・細馬宏通(ほか分担執筆)
『幻燈スライドの博物誌 プロジェクション・メディアの考古学』
青弓社、2015年4月

「幻燈」という言葉にはどこか懐かしい響きがともなう。年長の世代であれば、子どもの頃に駄菓子屋の片隅で目にしたり、雑誌の附録で組み立てた経験がある方も多いと聞く。しかし不思議なのは、実際に手にしたことや実物を見たことがない若い世代であっても、「幻」と「燈」の文字の並びのせいだろうか、あるいは幼少期に読んだ小説の記憶のせいだろうか、この言葉は淡くノスタルジックなイメージを喚起するらしい(実際「幻燈ノスタルジィ」なるゲームソフトも存在するのだという)。どこかで目にしたことがある、たしかにその言葉を聞いたことがある、しかしなぜかその具体的な姿は像を結ばない──映画史と文化史のはざまで忘れられてきた幻燈は、長らくそんな存在だったのではないだろうか。本書はそんな映画史の端役、小説世界の小道具にとどまってきた幻燈にフォーカスし、現代のデジタル化した映像環境に遍在するプロジェクション・メディアの原型として、新たな光をあてようという試みである。

早稲田大学演劇博物館で開催された「幻燈展」に合わせて刊行された本書は、演劇博物館が所蔵する幻燈スライドのコレクションから350点以上の図版を掲載している。ノスタルジックな観想に浸ろうと手にとった読者は、いい意味で期待を裏切られるのではないか。たしかにここには郷愁を誘う過去も、淡い光や色彩も十分に存在する。しかしそれ以上に目を惹くのは、小さなガラスに描かれた世界の多彩な広がりと豊かな奥行きだろう。フルカラーで掲載されたスライドには、三番叟がありハムレットがあり忠臣蔵がある。浅草の名所があればチベット奥地の写真があり、修身や教育に使われたスライドがあれば戦争や震災を伝えるスライドがある。御真影があればチャップリンのブロマイドがあり、ことわざや諷刺や滑稽がある。スライドの合間に登場する解説や魅力的なエッセイの数々は、幻燈会の巧みな語り手のように、写真や映画、報道や寄席文化との実にさまざまな影響関係や、その歴史的・文化的なネットワークの広がりを存分に教えてくれる。あるいは幻燈が家庭用の娯楽として、また独自の表現形式として昭和期以降も普及していたこと、現代のアニメーションや予告篇、YouTubeやカラオケにまでその残響をとどめていることを私たちに示唆してくれる。

本書のなかでは明示されていないけれど、読者はこの文化的な広がりが、『猫町』の幻影や『雪渡り』の狐の幻燈会とつながっていることを知ることができる。あるいはランボーの『地獄の季節』ベンヤミンの『パサージュ論』に登場するファンタスマゴリーや乱歩のレンズ嗜好症、そしてメリエスの魔術や現代のインタラクティヴな映像表現とのあいだの隠れた照応関係に思いを馳せることができる。「あれとこれは違う」と断定し区別する冷たい分類学的な視線は、ここではいったん置いておこう。現実と夢、実物とフィクションが交錯する博物誌的な想像力のなかで、「これは錦絵に似ている(かもしれない)」「ここはメディアアートと同じ(とも言える)」「あれはアニメーションとつながっている(ように見える)」というように、過去と現在を錯綜させ、メディアを横断し、意外なつながりを見出すアナロジーの視線を、ここでは自由に作動させよう。きっとその先に、今までとは異なる系譜が、思いもしなかった事物と想像力のネットワークが見えてくるだろう。〈幻燈〉というメディアとそれが見せてきた夢の痕跡は、いまだ十分に解読されぬまま、私たちの目の前に投げ出されている。(大久保遼)

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大久保遼・土屋紳一・遠藤みゆき(編著)
岡室美奈子・草原真知子・向後恵里子・細馬宏通(ほか分担執筆)『幻燈スライドの博物誌 プロジェクション・メディアの考古学』青弓社、2015年4月