新刊紹介 単著 『小説技術論』

渡部直己(著)
『小説技術論』
河出書房新社、2015年6月

ヘッタクソな小説(家)への毒針に似た酷評をためらわずしかも善意の塊と自称する批評家・渡部直己は、理想の教師である。『小説技術論』(以下『技術論』)は、坪内逍遥から横光利一までの日本文学の技術的変遷を追った『日本小説技術史』(以下『技術史』)と併読されるべきである。『技術論』は、横光の「純粋小説論」の成果のごとき近年の作品群を見渡す「移人称小説論」にはじまり、対談や講演原稿など構成は『技術史』と異なるが、理想の教師の授業には予習・復習が不可欠だ。

登場人物への叙述において、彼・彼女自らが語る一人称形式と、匿名の存在が単数・複数の人物の視界に定位する三人称形式とが交錯するのが、渡部の言う「移人称小説」である。渡部が、「その変則的な叙法になにか応分の必然性はあるのか」、目新しさの演出ではないか、具体物の描写ができないだけではないか、とでもいった疑いを抱くのはもっともな事だ。渡部にとって小説の「技術」とは、不可能を可能にするアクロバットであって、見え透いた媚態ではない。大西巨人は、文学の理想として、「劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」あるいは「この道や遠く寂しく照れれどもい行き至れる人かつてなし」を引用した。渡部はこの「黄金の釘」の打ち方を教えようとしているのであり、「遠く寂しく照」らされた道に生徒を誘惑する。作家(志望の学生)に、「お願いですから心理描写に頼らずお書きください(・・・)安易な道に頼っていては、進歩するはずはない」と釘を刺す渡部は、理想の教師である。

渡部の批評は、作者の人生と心理とを遠ざけつつ、現に書かれている言葉同士の連関(小説技術)を拾い上げることで進む。誰もが知っている解決法をあえて選ばないというこの倒錯が、渡部直己を根底で特徴付けている。「高校まで野球部で育ったせいなのかもしれませんが、メンドウなことや困難なことをすればするほど見返りが大きいという、考えてみればもっとも愚直な倫理観」の持ち主である渡部は、既存・常套の解釈に寄生する脱構築としてこそ彼自身の読解に着手する。たとえ論述の過程で斥けられようとも、議論の土台として、ある作品の凡庸な解釈が出発点とならざるを得ないし、他方、その共通理解を打ち砕けるならば、それだけ自らの読解の価値も上がると言えようか。渡部自身も信じてなどいないような前提から始めなければならないというのが、この批評家の方法論の逆説である。デリダが形而上学の古典をこそ標的とし、ド・マンが彼のプルースト論を最も愚直な方針から始めるように、である。この小説は普通こう読まれている、だけど・・・と言いつつ、その小説の新たな表情を垣間見るために、渡部はあらゆる手立てを尽くす。その意外性といおうか、視界がぐらつくその一瞬のスリルは、しかし、それ以前の危なげない安定性からくるものだ。だから、佐々木さんと違ってぼくには、「円城塔のような離散的で、始めからどのようにも読める作品は、扱いにくい。」学生の頃から渡部に学ぶことの少なくなかったであろう佐々木敦との対談(「脱構築vs複雑系」)で、この理想の教師がこうした告白をするのは、偶然にしてはいかにも示唆に富む。

『技術史』と『技術論』とは互いに大きく異なっていながら、そのいずれもが渡部直己を理解するうえで必須のものである。渡部直己を理想の教師と称して誇張にならないのは、この批評家が、なにもかも教えまくるその教え魔ぶりによって、やがては自らの誤謬や矛盾すらも教えてしまうためである。しかしそれは、本来あまねく教師の務めでもある。生徒が成長し、自らの助けを必要としなくなることをもって教師がその職務を全うするのならば、教育の成功は教師の退去であり、ときに教師自身の誤謬・欺瞞への弾劾によってこそ、生徒の成長は証明される。教師とはこの意味で、自滅を運命付けられているし、自らの権威を覆す術を自ら伝授せねばならない。渡部も言及する『マゾッホとサド』においてドゥルーズが、教育とはマゾヒズムのものだ、という所以である。

渡部直己という書き手の貴重さは、彼自身が知悉しているところの方法論の限界にも関わらず、個々の作家・作品の読解に関してとにもかくにも説得力ある批評を提示してしまうところにある。魅力的な嘘を振りまきつつ、それが嘘であることも強調するという矛盾によって、彼は理想の教師となる。ここで問題となっている矛盾は、もはや、気付きさえすれば避けられるような類のものではない。デリダはかつて、脱構築によってその内的矛盾が明らかになる著者は、その矛盾が避けられないことを実演する真の教師かもしれないではないか、と問いかけた。渡部直己が自らを善意の人と称するとき、それは全く嘘ではない。自らの持てるものすべてを分かち合おうとする渡部は、渡部自身の盲点を刺し貫く凶器を読者=生徒に手渡すことも辞さない。渡部直己殺人事件の捜査は難航するだろう。渡部の毒針の被害者だけでなく、その教師的善意の恩恵を蒙った者達も容疑者となる。凶器は毒針か、「黄金の釘」か?

では、『技術論』とあわせて『技術史』を読み直すと、どうなるのか?このことは、『技術史』に対する絓秀美の問題提起とも関わる。『天皇制の隠語』所収の絓の短文(「フォルマリズムは政治を回避できるか」)は、渡部の言う「技術」が、今日的な意味の匿名の技術というより、いわば個々の作家の創意による「手法」ではないのかと問いかけた。絓の言う技術と手法とのすりかえは、意識・主観の外部にあるメカニズムが内面化されることを指し、内面化とは、感性論=美学の対象(イメージ)へと変容させるという意味で、美学化でもある。政治の美学化としてのファシズムに敏感な絓がこうした問いを発するのは、当然のことだ。しかし、問題はさらに複雑である。渡部が奥泉光との対談で語りなおすように、『技術史』自体、作家たちの人間としてのイメージを前面に出す高橋源一郎を殺すための試みとして開始されたのだった。高橋が提出するイメージに抗してテクストの具体的な技術を拾い上げる渡部は、しかし、別の形で作家像(というイメージ)に依拠する。すなわち、言語操作に創意を発揮する存在としての作家、というイメージである。もとより、これらのイメージなくして言語は読み得ない。何かを読み取るために書かれている、という信頼を欠いたところに現れるのは、白紙の上のインクの汚れである。テクストに対する美的な読みと、美的イメージをひたすら解体していく形式的な読みとを峻別しつつ、形式主義を徹底させるド・マンが、読むことの究極的な不可能性に至るのは、このためだ。デリダやド・マンと自らの試みの類似性を渡部自身も語ってはいるが、しかし、当のデリダやド・マンが、渡部のように作品を論じたことはなかっただろう。『技術論』と『技術史』の著者は、このことの意味をどう考えるのだろうか。

もとより、マーク式ペーパーテストでもあるまいに、複数の選択肢の中から間違いを避けて残った一つがホラ正解、というような事態ではない。こうして、『小説技術論』という新たな難問を私たちに課すがゆえに、渡部直己は今も、理想の教師でありつづけている。(玉井修介)

2023年4月の但書

筆者は、この新刊紹介を2015年に執筆した。報道されているように、2018年に渡部直己氏は、大学院生へのハラスメントを理由として、早稲田大学教授の任を解かれた。被害者は訴えを起こし、2023年4月6日、東京地方裁判所で第一審の判決が言い渡された。被害者はこの判決を不十分なものと考え、控訴を検討しているという。しかし少なくとも、渡部直己氏の行為に氏の教育者としての資質を疑わしめるに足る点が多分にあったことは、この判決で事実として確定したと筆者は判断した。よって、表象文化論学会の許可を得て、ここに但書を追記する。

この新刊紹介の筆者には、執筆の前後を問わず渡部氏との面識は無い。「理想の教師」という文言は氏の大学教員としての具体的な振る舞いを肯定・賞賛するものではない。渡部氏のハラスメントが決して容認・擁護できないものであることは、自明でなければならない。

渡部直己(著)『小説技術論』河出書房新社、2015年6月