新刊紹介 | 単著 | 『保存修復の技法と思想 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』 |
---|
田口かおり(著)
『保存修復の技法と思想 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』
平凡社、2015年4月
「技法と思想」という書題が端的に示すように、本書は芸術作品の保存修復の歴史や現在の実践のあり方と、それらをめぐる思想や言説史をともに、緻密に詳述するものである。古代やルネサンス時代から、多様で、ときに非永続的ないし交換可能なマテリアルを用いたコンテンポラリー・アートにいたるまでの幅広い年代が扱われており、保存修復の通史としても優れた書であるが、ただ網羅的な概括に留まることなく、各々の時代や芸術作品の存在態様に固有の論点が、的確に掬い上げられている。また本書の構成は、近代修復学を築いたチェーザレ・ブランディの理論を縦糸、保存修復の四大原理(可逆性、判別可能性、適合性、最小限の介入)、そしてアーカイヴズというテーマを緯糸とするもので、夥しい事例や論点を扱いつつも、論理の展開は明快である。
言葉通りに考えれば、保存とは時間を止める営みであり、修復とは時間を遡行する作業であって、そこには作品を流れる時間という問題が常につきまとうだろう。本書の底流をなすのは、まさにこの「時間性」についての問いである。このプロブレマティックはさらに、作品の「生」と病や死という問題や、作品をめぐる記憶のテーマへと繋がってゆく。前者について言えば、保存修復とは、作品のいわば「身体」をめぐる問題であり、その実践と理論を思考することとは、可視的な表層から内奥の層(支持体)へと、言述の「メス」を入れてゆく試みに他ならない。また「記憶」の問題に関しては、第5章を中心に、ドキュメンテーションやアーカイヴズ構築について紙幅が割かれている。さらに、保存修復という介入行為が様々なレベルの「権力性」を帯びるという、重要な示唆がなされていることも指摘しておきたい。
また本書では、「保存修復」という営為が、作品の「物質」としての側面と「イメージ」としての側面の絡み合いの場であることも示される。今日「イメージ分析」と「物質文化論」はともに、芸術作品を考察するための方法論として欠かせないものとなっているが、一見すると次元を異にするように思われるこの二種のアプローチが、その実重合するものであることを、本書は例証してくれるであろう。
この書は、実践から切り離された思弁のみ、あるいは理論的考察を欠いた実践の技術のみに偏ることなく、思想と技法とが密接に連関し合う様を提示している。換言するなら、歴史や理論体系についての知と、実践的な技法や技術との、緊密な結びつきが示されており、大学に対して「実践的な学」が外部から強制されつつある現状に鑑みるなら、人文学知が有する一つの可能性をも示唆する学術的達成となり得ているのではないだろうか。
図版の精緻さと美しさについても特筆しておきたい。巻頭のカラー図版のみならず、本文中に挿入されたモノクロームの図版も、現物のマチエールを喚起させ、読む者の眼を惹きつける。これらの図版は、巻末に収められたバルディーニ『修復の理論』第1巻の抄訳や用語集と併せて、本書の資料としての価値を高めているだろう。
芸術作品の保存修復という単一のプロブレマティックに限らず、本書から引き出しうる様々なテーマ──時間性、ヴェール・顔・化粧といった表層、芸術作品と生命・身体・病のメタファー、マテリアルとイメージの相互関係、メディウムの諸問題、パレルゴン、芸術作品とデコールム、毒と薬の両義性、「記憶」とアーカイヴズなど──は、個々の読者が自身の思考を発展させるための、良きヒントとなるはずである。同時にまた本書は、芸術作品を前にした私たちに、新たな眼差しのあり方――その時間性を観想し、物質的な変遷や介入の痕跡を探すような――をも開いてくれるであろう。(小澤京子)