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オリバー・サックス追悼の余白に
長谷正人
この欄に何を書こうかと悩んでいた8月30日、脳神経科医のオリバー・サックスが82歳で亡くなったという訃報が飛び込んできた。『妻を帽子と間違えた男』(早川書房)、『火星の人類学者』(早川書房)、『手話の世界へ』(晶文社)など、医学的エッセイとでも言うのだろうか、あのサックス独特の書き振りの文章に私はどれほど啓発されてきたか分からない。だからここは彼について書こう。サックスは、科学者・医学者でありながら、統計的に表れる患者の平均的症状を説明するのではなく、彼が遭遇したたった一つの固有の症例を事細かに描写してゆく。それが私を撃つのだ。単にその症例が特別だから面白いというのではない。単独の極端な症例であるにもかかわらず、読者はその記述の余白に、人間一般とは何かというような普遍的な問いを思い描かざるを得なくなってしまうところが面白いのだ。
例えば『火星の人類学者』のなかの「「見えて」いても「見えない」」というエッセイ(吉田利子訳)。ここで取り上げられているのは、幼いころから盲目だった男が五十歳を過ぎてから手術で視力を取り戻すという、まるでメロドラマのような事例である。本人も家族も最初は目が見えるようになったことに熱狂的に喜ぶが、やがてさまざまな困難が彼の前に立ちふさがる。何度見ても飼い犬と飼い猫の区別がつかない(触ればすぐに区別がつくのに)。個々の文字を判読できるようになっても単語として認識することができない。目の前のサラダが見えていても、トマトをフォークで突き刺すことに失敗する。こうして「見る」ことの努力に疲弊したと思われるこの男は、日常生活のなかで「見る」ことをやめ、やがて再び視力を失ってしまう。
この挿話から私は、人間が普通に「見えている」とはどういうことかを改めて考えてしまう。どうやら私がいま何かを「見ている」ことは、自分の行動と結びついて初めて意味を持つらしいのだ。目の前のサラダのトマトを私たちはただトマトの像として鑑賞しているのではない。それだけでは「見る」ことの意味はない。私はトマトを見たとき、どういう距離感で手を伸ばせば掴むことができ、それを口元に入れるときどういう力加減で噛めばよいか、それはどういう味がするのかを一瞬のうちに思い出す。つまり通常私たちにとってサラダのトマトを見るということは、それだけで潜在的にそれを「手に取り」、「食べる」ことを意味するのである。視覚的情報は自分の行動可能性と結びつき、それが自分の活動の生態学的環境を作り出す。「見る」ことはその環境の一部を構成しているにすぎない。
だとすれば逆に、目が見えるようになった症例の男は、まるで一日中映画を見ていたようなものではないか、と私は逆説的に考えてしまう。彼は、目の前の世界が視覚情報としては見えていながら、それを自分の行動に結びつけ、自分の生態学的秩序のなかにうまく取り込むことができなかったからだ。しかし映画とはまさに、人類にこうした経験をもたらした機械ではないか。映画のなかのトマトは、ただ見るためのトマトとしてそこに見えているだけで、観客はそれを掴もうとしたり、食べようとしたりしない。映画は、そうした、ただ見ること自体を生態学的秩序とするような特異な経験として人類にもたらされたのである。
私はサックスのこのエッセイを読んだ当時、リュミエール映画の観客たちが人間のアクションの意味に反応したのではなく、『赤ん坊の食事』の背景で葉っぱを揺らす風や、『壁の破壊』で舞い上がる土煙や、『水をかけられた撒水夫』でホースから放射される水のしぶきに反応したという事実は何を意味するのだろうと悩んでいたところだった。だから、これを読んで大きなヒントを与えられたような気がしたのだった。そうか。映画を受容する体験とは、自分の「見えている」ことが、自分の行動とは決して結びつかないという意味で特異な経験なのだと。だとすれば、何らそのことに違和を感じないままに、映画って楽しいですねなどと語る現代の人びとは何だか奇妙な人びとではないか。そんなことを考えた。
いや私が言いたかったのは、現代の映画観客は鈍感だというようなことではなく、知的刺激は思わぬ方向からやって来るということだった。私は映像文化を研究する人間として、自分の問いに対する回答を探して、先行研究のあれこれを探索することになる。しかしたいていは面白くない。どれもこれも馬鹿みたいな論考に見えてしまう。しかし実は(後から考えれば)、私がそのとき悩んでいることへの回答は、たいていそのとき読んでいる先行研究に論じられているのだ。だが私はまるで盲人のように、その重要な情報を自分の思考活動の生態学的秩序にうまく取り込むことができない。同じ土俵で考えている研究者たちは、みんなでその枠組みを形作っている隠れた前提を共有してしまっているので、私の思考をうまく先に進めてくれない。そんなときしばしば、研究とは全く関係ないつもりで読み始めた文章が、不意に私をその枠組みの外に連れ出して、全体の構図を見せてくれることがある。
サックスの訃報は、私にそんなことを思い起こさせてくれた。表象文化論学会という、さまざまな専門の研究を、さまざまなコンテクストで行っている人びとが形作っている学会は、そんな思いもかけない方向からやって来る知的刺激の可能性が満ち満ちている(はずだ)。私はあまりに当たり前すぎることを言っているのかもしれないが、やはりそう思う。
そういえばオリバー・サックスの引用を、意外な場所で読んで驚いた経験があった。ジョルジョ・アガンベンは、「身振りについての覚え書き」(高桑和巳訳『人権の彼方に』以文社)という論文のなかで、サックスが1971年のニューヨークの街角で、数分の間に三例のトゥ―レット症候群の症例を見かけたという『妻を帽子と間違えた男』の中のエピソードを取り上げている。そこからアガンベンは、ほとんど常識外れとしか思えないような「映画とは何か」をめぐる大胆な議論を展開していくのだが、それをここで説明している余裕はなくなった。ただ他分野からの知的刺激は、人を挑戦的な姿勢にさせてくれるのかもしれない。そう思わせてくれるくらい、これはびっくりするような論文だったとだけ記しておく。
長谷正人