トピックス 2

ティム・インゴルド連続講演会「『生きていること』から始める」

第1回:2012 年2月29日(水)南山大学
  講演会「生に向かう人類学/Anthropology comes to life」
第2回:2012 年3月1日(木)立教大学池袋キャンパス
  講演会「ジェームズ・J・ギブソンと生態心理学を巡って」
第3回:2012 年3月3 日(土)東京大学駒場キャンパス
  シンポジウム「〈生きること=つくること〉としての建築」
第4回:2012年3月4 日(日)東京大学駒場キャンパス
  ワークショップ 「生=線 lines を巡って」



「やがて蜜柑のごとき夕陽、欄干にこぼれたり。ああそのような時もありき、寒い寒い日なりき――――中原中也の情緒に打ち勝ってほしい、YCAMのマッシブデータフロー。」3月4日、つまり4日間のティム・インゴルド氏の連続講演会の最終セッション後に、その日ディスカッサントを務めた池上高志氏は、自身のtwitterでこのようにつぶやいた。このつぶやきはおそらく、いや必然的にインゴルド氏の講演会によって触発されたものである。複雑系システムを専門とする池上氏が、敬愛する中原中也を仮想敵として掲げ、科学者としての自負や使命感を表明せざるをえないほどに、インゴルド氏の講演は、私たちの、この生きている身体によってのみ叶えられるポエジーとバイタリティに溢れていた。

2012年2月29日、3月1日、3日、4日の合計4日間に渡って、人類学者ティム・インゴルド氏による連続講演会が開催された。昨年公刊されたBeing Alive: Essays on movement, Knowledge and description (Routledge)のタイトルにも明らかなように、インゴルド氏は一貫して、近代以降、硬直の一途を辿る人間の知識や記述を、現在進行形の生へと回復することを提唱している。4日間の講演会は、生きていることへの回帰を唱えるインゴルド氏の思想に重なり合う、様々な専門領域からのゲストを迎えながら、以下のように進行した。

人類学者たちが集った29日の講演会では、Being Aliveの序文を用いながら、氏の思想的遍歴が語られた。マルクス・エンゲルス、ハイデガー、メルロ=ポンティ、J.J.ギブソンの議論を礎に進められてきたインゴルド氏の思索は、ここ数年はドゥルーズ=ガタリを通じて自らの原点であるベルグソンの生命の一元論へと立ち戻り、「生=線を描くこと」というテーゼに帰着したと言う。行為主体agencyと対象objectという区分を設けずに、世界をそれぞれの進行する複数の生の絡まり合いとして捉えるという提案は、ホワイトボードに複数の線が絡まり合う素描によって描き出された。

続く3月1日のJ.J.ギブソンをテーマとする講演会では、ギブソンの「環境」概念の問題点が明らかにされた。インゴルド氏は、知覚を行為・運動のなかで理解するギブソンの見解に賛同しつつも、客体化され固定的なギブソンの「環境」概念は、常に運動している生を捉えるためには不十分だと主張する。インゴルド氏の批判は、いわばギブソンが無意識的に前提としている二元論的な存在論に対して向けられていた。この日のディスカッサントは二人の哲学者、共に生態心理学と現象学をバックグラウンドとする村田純一氏と河野哲也氏である。河野氏は、ハイデガーの存在論を批判するリュス・イリガライなども引きつつ、インゴルド氏が提案する、ころころと絶えず変化するお天気weatherを基礎とした存在論についてコメントを加えた。他方、村田氏は、そもそもギブソンの理論は、知覚の理論であって生lifeの理論ではないのではないか、また、そもそも生lifeにはインゴルド氏が言うような全てが不可分に混ざり合った側面があるのと同時に、対象的・固定的側面が存在するのではないか、という極めてクリティカルな質問を投じていた。

4日間のうちで、最も即興的な豊かさに溢れていたのが、3月3日の建築家を迎えてのシンポジウムである。このシンポジウムのテーマは、行為主体agencyが予め抱いているイメージを物質に投影するという、近代的な創造モデル=hylomorophic modelに取って代わる制作の原理を探ることであった。気鋭の建築家、平田晃久氏、塚本由晴氏のプレゼンテーションに触発されたのか、この日、インゴルド氏は新たなアイディアを次々に披露していた。特に印象的だったのは、イマジネーションに関する言及である。インゴルド氏は、イマジネーションとは未来予測などでは決してなく、目的を追い越して走り行くものだと述べていた。またこの見解と関連し、「建築の目的とは物語storyである」とも述べた。何て素晴らしい定義だろう!平田氏、塚本氏による実作的観点からの語りとも見事に呼応していた、こうしたインゴルド氏の発言は、シンポジウムのテーマである、生の絡まり合いとしての制作の原理に決定的な仕方で触れるものだったと言える。

そして最終日の3月4日。冒頭にも触れた池上氏も含め、司会の小林康夫氏、生態心理学の専門家である野中哲士氏、そして私・柳澤がインゴルド氏の講演に対してコメントや質問をし、それぞれインゴルド氏が答えるという盛沢山な会となった。柳澤、野中氏、池上氏の順番で行われたコメントは、基本的にそれぞれの立場、つまり哲学、生態心理学、自然科学・複雑系の立場からインゴルド氏に批判を加えるという内容だった。企画者としては、(不遜ながら)この日はきっとプロレスみたいになるだろうと予想していたのだが、この予想は的中した。池上氏がインゴルド氏に浴びせた激しい自然言語批判(Why don’t you get out of natural language?)はその最終戦の一幕である。生きていることの核心に異なる立場から迫る、両雄たちによる豊かな対決は、その場に立ち会った人たちに、自分自身の立場を反省する契機を与えたことだろう。インゴルド氏のように、あくまでもこの身体を始点とし、科学技術による過度な媒介を退け、内在主義的に生命の可能性を展開していくのか。あるいは池上氏のように、躊躇なく生命の外部へと科学技術とともに踏み出し、あまつさえ生命を人工的に創ることまで認めるのか。

企画者としては、4日間の会が、それぞれに開放的で生産的な場になったことについて掛け値なしに感謝している。と同時に、インゴルド氏の議論を本当の意味で引き受け、その真価を吟味するためには、一度は思い切って、批判と抗弁によって成り立つアカデミックな議論を捨てて、具体的なマテリアルに触れる時間があってもよかったのではないかと思っている。3日目のシンポジウムの最後に、フロアの一人の女性はWhat kind of house do you like?とインゴルド氏に尋ねた。そして、また4日目のワークショップの始まりに、小林氏はWho is your favorite artist?とインゴルド氏に尋ねた。これらの素朴な問いは、インゴルド氏の〈生=線〉の思想に共感した上で、一体何が良くて何が悪いのか、もっと具体的に知りたいという欲求の発露であったように思う。私たちは、明日から突然、都市生活を捨てて円錐形のテントに住み始めることはできない。近代的な知が生についての誤解であると認めたとしても、その誤解に立脚した私たちの現行の生を一体どうすればよいのか。インゴルド氏は、この問いに対して明確に回答することはなかったが、この問いに具体的に切り込むために決定的に重要なステップを与えてくれた。

(報告者:柳澤田実)