小特集「メタモルフォーゼ」 | 1.対談 松尾恵×佐藤守弘 | 4 |
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—— そこでいう「アート」というのは郊外から世界へという流れでしょうか。
松尾:そうですね。
佐藤:今熊野も中心部から見ると十分郊外だけれど、歩いて祇園まで行ったり、河原町のあたりも自転車で行けるチャリンコ文化圏なわけですね。沓掛はチャリンコではどうしようもない(笑)。やっぱり学生も電車で中心部まで出られる桂あたりに住みますよね。
松尾:だから、チャリンコで行き来できる範囲で、終電を気にせず盛り上がっていた。百万遍に地塩寮っていう京都大学の寮があって、実はヴォーリズが設計したんですけど、そこでダムタイプの小山田徹さんが京大生と共同してカフェをやらはるんですよね。
佐藤:ウィークエンド・カフェ?
松尾:そうそう、そこに人がいっぱい来た。沓掛の学生も自転車で来てたり。そのウィークエンド・カフェの少し前から、京大の裏手の吉田山に一軒家を借りて、アートスケープっていうインディペンデントなアート・センターをやってたんですね。私とか古橋さんも噛んでいました。後に古橋さんのお葬式をそこでやったんです。そのふたつが近かったからみんなが自転車で集まってきて、そこから渦みたいになって、それまであまり付き合いのなかった同志社大学や京大の学生さんたちがアートを社会現象として捉えてくれた。その時点で森村さんがウィークエンド・カフェにいるかっていうといないんですよね。けれども、古橋さんは本当に多方面に交流を持っていたから、森村さんは「悌二 、悌二」って大事にされてたようです。古橋さんが1989年に日本で初めてのドラァグクイーン・パーティーを大阪でやるんですよ。たしかピエロっていうところで。記念すべき第一回には私は行ってないんですけど、そこに来てたのが石原友明さんや森村さん。そのパーティーは古橋さんがいなくなったあともまだ続いているんですけどね。女装のゲイのパーティーをやったって芸大生の8割くらいは理解できないし、来ないですよ。そこに行く森村さんの古橋さんへの理解は、すごく正しかったっていうか深かったんやと思う。
佐藤:森村さんは、そういうクラブ・カルチャーとかアンダーグラウンドとの繋がりは表に出しませんよね。
松尾:あんまりね。出されたのは一回だけ。麿赤兒の舞台に出はりましたよね。でもそれも舞踏がサブカルじゃなくなってからの時代やから。
佐藤:それこそ旧世代の「芸術」ですよね。
松尾:いつのまに白塗りの人たちがこんなに表舞台に出るようになったんやって感じですけどね。森村さんはすっごい興味をお持ちでした。映画にも出はったでしょ。井川遙が出てくる『FILAMENT』〔辻仁成監督、2002年〕っていう映画。森村さん、井川遙のお父さん役なんですよ。女装っていうか、着物着て出てくる。娘をたぶらかした男に最後、啖呵を切る。岩下志麻みたいな着物姿で、そこで急に男父らしい父になるんやけど(笑)、めっちゃかっこいいんですよ。映画に出られたときは女優シリーズをやってらしたんじゃないかな。森村さんのゴッホは最初から世界がびっくりしたと思うんですけど、女優シリーズは国内ファンに向けてのサービスだった気がするんですよ。だって、岩下志麻に化けたって外国の人は分かんない(笑)。今だったらセーラー服着てたらそれなりに受けたかもわからんけど、当時、薬師丸のセーラー服着ても外人さんには分からない。
佐藤:でも異様に似てたっていう……(笑)。
松尾:そういうふうに見ると、古橋さんは海外へ出ていくときに〔自分自身を〕最大限に利用した。そのうちのひとつがドラァグクイーン。女装して、ニューヨークのアンダーグラウンドのクラブのDJとかダンサーとかとの付き合いがあった。ところがニューヨークでどこかの美術館のディレクターと昼間にお互いネクタイ締めて打ち合わせして、その夜女装してクラブに行ったらそのディレクターも来ている(笑)。「なんだ、同じ世界に住んでますね」っていうことで「夜も昼も仕事できたよ」と古橋さんは言ってました。森村さんも名画っていうか西洋の美術史に乗っかることによってバスッと出て行かれる。出て行き方はちがうけれども、二人とも、元々の「日本男児」のままでは出て行けない。私の想像ですけどね……。いわゆる日本のステレオタイプな男性作家のままではこの時代あかんのちゃうかっていうことを知ってはったんじゃないかな。
佐藤:そこが具体なんかとはちがうのかな。たとえば具体の白髪一雄さんは、身体の痕跡を提示していくんですけど、森村さんや古橋さんが提示したのは身体そのものですよね。
松尾:そういう意味では、古橋さんも森村さんも作家自らを作品化していくことで西洋美術史の土俵にいきなりドンと乗っかるっていう感じですね。私はダムタイプと隣りあって画廊をやってたけれど、海外からのお客さんが本当に多かった。窓口は全部古橋さんですよね、やっぱり。彼は高校時代バンドをやってて、外国の曲をコピーすることで英語覚えてんって言ってました。英語が独学でしゃべれたっていうのと、それがたぶんゲイ英語だったと思うんですよ、チャーミングな。マッチョで権威的な感じっていうよりは、オネエ言葉って言ったら変だけれども、そういうチャーミングな英語やったんやないかな。
佐藤:結果としての海外ではなくて、初めから狙っている。それこそ音楽の世界でもYMOみたいなミュージシャンが出てくる時代ですよね。
松尾:今みたいにインターネットがないわけやから、自分が海外に行くしかないでしょう。やっぱり行って体得してきた人間関係とか……。勘がよかったんでしょうかね。この隙間なら突いていけるという戦略性っていうのかな。過去の「芸術家」は戦略的じゃないですよね。
佐藤:戦略的であることは恥っていう雰囲気……。
松尾:そうそう。人間関係とかメディアを許されるかぎり使って戦略的にやっていくっていうのは80年以降ですよね。ダムタイプもよう言うてましたけど、アーティストが企画書を書くようになった。今はもう助成金申請するときにステイトメントをちゃんと書かなあかんのですけど……。いわゆる企業協賛を受けたりするための企画書を書くようになったんですよね。
佐藤:よく考えたら作品がモノじゃなくなるっていうのも大きいですよね。インスタレーションもパフォーマンスもモノとして売れない。となると、助成金に向かっていくっていうのもあるかもしれない。
松尾:古橋さんはダムタイプのなかでも一番早くアメリカに行ったりしてました。助成金でアーティストひとりずつが支援を受けられるっていうことは日本にはまだなかったですけど、そういうのをいち早く取り入れた。セゾン文化財団が助成金制度を始める時期も早くて、ダムタイプは実績積んでさっそく助成金をゲットしてましたね。当時はいろんなものが同時並行で結びついて、がっつり混じりあっていたような気がします。美術館も今みたいに沢山はなかったでしょ。企業美術館がまだ出来つつあるときで、何をしていったらいいねん、みたいなときにセゾンは早かったですね。いままでの日本画やら壺やらをお客さんに売るっていうデパート・アート商法とはちがうことを一番先にやった。だから表現としても新しいものへ投資したんだと思いますよ。