小特集「メタモルフォーゼ」 | 4.研究ノート | メタモルフォーゼとメタフュジーク |
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メタモルフォーゼとメタフュジーク
串田純一
ずいぶんと大げさなタイトルではありますが、しかしこれはまた恐らく誰もがすぐに思い到る連想であるにも違いなく、こうした場合にはとりあえず定番から始めてみても損になることはないでしょう。
メタフュジーク=形而上学の実質的な祖であるプラトンにおいては、おおむね「イデア(またはエイドス)=見え」の優位のもとで「モルフェー=形」は従属的なものに留まると言うことができるでしょう。というのも、不変の姿に安らうイデアがロゴスによって把握することができるのに対し、形態はまさに絶えずメタモルフォーズして止まない感性的で儚いものだとされるからであります。またハイデガーなどは、先取りされたイデアに基づいて物に形態を与える「制作」こそがギリシア的存在理解の根底にあると言いますが、モルフェーに対するイデアの優位は人間による自然への技術的介入の可能性とも対応しているわけです。
他方、実地の自然観察によって形態変化の豊富な例に通じていたと思われるアリストテレスにおいては、形態の変化を貫いて同一に留まり変化そのものの存在を可能にするものへの問いが、積極的に取り上げられることになります。それは基体(ヒュポケイメノン)あるいは実体と呼ばれ、それの個体性とイデア性を巡る論争が後の形而上学の一つの中核をなしたわけですが、近代以降もなお二つの方向において、実体は変化・変容を理解させてくれる基本的な範疇であり続けています。すなわち、一方では物質界の変化がそれらの諸運動の合成として説明されるところの最小要素(原子・素粒子)として、他方では生命の諸変態を通して同一性を保ち続ける非物質的なもの(魂・心あるいは主観)として。
もちろん――象徴的に言えば――ニーチェ以降、こうした実体をさらに無数の「力」の拮抗・収束・相克などの効果として理解するという課題が、ほとんど歴史的な必然のように要請され続けていることも確かです。こうした見方においては、形態はもはや或る実体の属性などではなく、諸力の均衡のもとで成立する仮初めの現出だということになります。つまり世界の本質は変化と流れであり、一見安定した形であってもその内部あるいは背後では多くの要素が絶えず働いているというわけです。実際、誰もがメタモルフォーゼの範型として思い浮かべるものに昆虫の変態があると思われますが、この例では、アラタ体と呼ばれる脳に近い小さな器官から分泌される幼若ホルモンが幼虫の蛹化を抑止しているということが知られています。最後の5齢に達してない幼虫もアラタ体を取り除かれると蛹になり、また5齢幼虫に他個体のアラタ体を移植するとそのまま脱皮して巨大な6齢幼虫になるのです。そして、こうしたホルモンなどの合成は遺伝子の発現(起点となるmRNAへの転写)に依存しており、その発現そのものは、DNAが巻きついているヒストンなどの高分子構造が文字通り形態変化を起こすことによって制御されています。「情報」などとして抽象的に考えられがちなものも、最終的には至って具体的なミクロの形態として保持されているわけです。またここにおいても、タンパク質に代表されるようなこうした生体高分子の形態は、決してそれに固有な属性・特性ではなく、一般的な媒質としての水をはじめとする近傍の諸分子との間に働く主に電気的な相互作用によって規定されています。そしてまさにそうであるからこそ、全体としての個体の状態に応じた体内環境の変化が、個々の分子の形態を変化させうるのです。例えば、Aという基質をBとCに分解する酵素が自ら増やした産物Bと(可逆的に)結合することにより変形してAに適合しなくなる、というのがその最も単純なモデルとなります。
しかし、まさにここで問題となるのは、私たち(人間)が依然として、こうした諸々の力やその全体性を先ずは個々の存在者の変形や運動を通してしか認識することができない、という事実でありましょう。この制約をどう考え位置づけるのかということが、改めて思考の課題となるに違いありません。こうした制約自身を再び何らかの諸力の方から理解することは可能なのでしょうか。またそれが可能だとして、その諸力の身分はどのようなものなのでしょう。それは諸現象の集積から抽象できるものなのか、それとも理解の原理として先に立てておかねばならないのか。後者である場合、この先行的な措定は何に由来しどう正当化されるのでしょうか(アプリオリ?)。いずれにせよ、私たちは自然物の形態変化=メタモルフォーゼを超えて、「メタ」の力あるいは機能のようなものへと向かわないわけにはいきません(これ自体が私たちの自然的本性だとカントは考えました)。そしてこうした事態を指すのに「形而上学=メタフュジーク」以上の名前は未だ見当たらないようです。
ところで実のところ、変化するものが常にそれ自身を超えつつありしかもその超えた先の方から自分自身を理解させる、という事態は、私たちに日々最も身近なものでもあります。そしてその最も抽象的で形式的なあり方が、時間に他なりません。変化し続ける「今」は、一つの連続を成して絶えずその内に自分自身を位置づけつつ、しかもその連なり自体はそのつどこの「今」において理解されています。こうした時間性の構造が実体や運動そして存在を理解可能にするのは、いったいどのようにしてのことなのか。これが今もなお形而上学にとって乗り越えることも避けることもできない問いであるということは間違いないと思われます。そしてそれがほとんど全ての哲学者によって考えられ続けてきたことであるからこそ、これまでとは少し違ったアプローチをしてみる必要も出てくるでしょう。例えば、たいていは時間的な出来事を「彩る」程度のものと見なされている感情・気分・情動といった――学術的な用語法さえ定まっていない――諸現象が、実はむしろ時間を「形づくる」ものなのだということは、ありえないでしょうか。そしてそれに応じて、基本的に(純粋な)「運動=キネーシス(における前後の数)」として考えられてきた時間を、(純粋な)「変形=メタモルフォーゼ」として捉えてみると、どうなるのでしょうか。しかしそもそも、こうした試みは果たしてなおも数式や理論的な言語を用いることができるのか。それとも結局は何かを作ったり振舞ったりすることを通してしかなされることができず、そして現にそうされ続けて来たのか。問うべきことは実に多くあるようです。
串田純一(日本学術振興会特別研究員)