小特集「メタモルフォーゼ」 3.ベッティーニ講演報告

マウリツィオ・ベッティーニ教授講演
「ウェルトゥムヌス――複数のアイデンティティをもつ古代ローマの神」報告
2012年3月9日於東京大学、12日於京都大学
佐藤真理恵

ここに一枚の絵がある。アルチンボルドの筆になる《ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世》である。一般に、ウェルトゥムヌスは、農作物や四季を司る、エトルリア起源の神とされている。アルチンボルドの他の作例と同様、ここでも花々、果実、野菜が所狭しと画面に溢れかえり、顔を構成している。とはいえ、メタモルフォーゼの循環を垣間見せるかのように、この合成された顔がはたしてウェルトゥムヌスに変装したルドルフ2世なのか、はたまたルドルフ2世になりかわったウェルトゥムヌスなのかは、かならずしも判然としない。しかも即物的に見れば、そもそも描かれているのは植物や野菜だけで人物は不在だとすらいえる。「隠すと同時に隠さない」このアルチンボルドによる修辞の「暗号化」(バルト)は、ウェルトゥムヌスという神を考察する上でも重要な論点の一つとなりうるだろう。

ギリシア・ローマ神話における数ある神々のなかでも、およそ馴染みがあるとはいえないこの神に、今回、スポットライトが当てられた。シエナ大学教授マウリツィオ・ベッティーニがこのウェルトゥムヌスを取り上げる所以は、「みずからのアイデンティティを絶え間なく変化させる」この神の特性にある。ウェルトゥムヌス(Vertumnus)という名は、もともとvertere(転じる、変化する)というラテン語に関係し、vert-(in)-omnis(万物に変形する)という連辞から派生してきたとされる。ただし、重要なのは、ウェルトゥムヌスのこの「万物への変形」が、ユピテルやバッコスなどがおこなうメタモルフォーゼとはその性格を大きく異にしているという点にある。ウェルトゥムヌスが変身するのは、あくまで「トーガをまとった市民、収穫人、草刈り人、牛追い人、剪定人、兵士、漁師、商人、老婆、若者、馬の曲芸師」といった市民社会(civitas)のアイデンティティを有する存在に限られ、白鳥や葡萄といった自然界の動植物、あるいは雨や雷といった自然現象にはけっして変身しないのである。さらに、他の神々のメタモルフォーゼと一線を画すウェルトゥムヌスのそれがいっそう特異なものとなるのは、ベッティーニの解釈によれば、おしなべて人間や社会の圏域に限定されたウェルトゥムヌスの変身が、上述の例からもわかるとおり、特定の個人への変身ではなく、「社会的役割」を帯びた人間を演じるという性格をもつからであり、その意味で、「固有名詞」への変身ではなく、「一般名詞」の領域における変身なのである。

あるいは、これは変身というよりも、変装に近いのかもしれない。というのも、古代ローマ世界では、職業や階級に応じて、服装、持ち物、指輪の材質やデザインなどが厳密にコード化され、帯の色や幅など、あらゆる装身具がその人物の社会的な地位に応じたアイデンティティの指標となっており、オウィディウスやプロペルティウスといった詩人たちがウェルトゥムヌスのメタモルフォーゼでもっぱら描くのは、顔や相貌よりもむしろ、そうした服装や装飾品についてだからである。換言すれば、ウェルトゥムヌスが変化させているのは、形状(morphe)ではなく、むしろ外見(forma)、似姿(imago)や形姿(figura)のレベルということになるだろうか。

ウェルトゥムヌスが異彩を放っている点は、たんにそれだけにとどまらない。変身というものにたえずつきまとう、移ろいやすく気まぐれで不安定なイメージとは裏腹に、「生まれながらの美貌(decus)に恵まれた」(オウィディウス)ウェルトゥムヌスのメタモルフォーゼは、むしろ「あるべき姿」へと適正(decorus)かつ優美(decenter)に転じることであり、撹乱よりも秩序を志向するものであるということだ。「わたしたちが目前にしている変身の神とは、アイデンティティの転覆ではなく、むしろアイデンティティを承認する傾向をより強く帯びた変身の神である」。ベッティーニはウェルトゥムヌスの本質をそうまとめて発表を締めくくっている。

ちなみに、近々刊行される予定の、まさにVertereと題された彼の著書では、「翻訳」という概念一般が、中国語やサンスクリット語まで射程に入れたいっそう広い視野からあらためてとりあげられている(vertereという語には、「回転」や「変化」のみならず、「交換」や「翻訳」という意味も含まれている)。京都では、その一端を大学院ゼミというかたちで披露していただき、有意義な質疑応答が取り交わされた。

なお、ベッティーニの主な著作には以下のようなものが挙げられる。
Il ritratto dell’amante, Torino: Einaudi, 1992/2008.
Le orecchie di Hermes. Studi di antropologia e letterature classiche, Torino: Einaudi, 2000.
Voci. Antropologia sonora della cultura antica, Torino: Einaudi, 2008.
Contro le radici. Tradizione, identità, memoria, Bologna: Il Mulino, 2012.

佐藤真理恵(京都大学)

ジュゼッペ・アルチンボルド《ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世》1590年