小特集「メタモルフォーゼ」 4.研究ノート メタモルフォーゼとしてのファッション

メタモルフォーゼとしてのファッション

平芳裕子

かつて森村泰昌が《フェルメール研究(大きな物語は、小さな部屋の片隅に現れる)》を制作したとき、幸運にもその現場を垣間見ることができた。フェルメールの《絵画芸術の寓意》に描かれた室内空間が国立国際美術館の展示室に巨大セットで再現され、後日その制作プロセスがNHKの『日曜美術館』や展覧会で紹介されたため記憶されている方も多いだろう。ご存知のように、フェルメールの《絵画芸術の寓意》には画家とモデルの二人の人物が登場する。《フェルメール研究》ではそれぞれの衣装を身に着けた森村を別々に撮影し、後から写真を合成することで二人の森村が登場する。世界地図の掛けられた壁を背景に、水色のドレスと月桂樹の冠を身につけポーズをとる女性。その顔立ちと楽器を手にする指先に、我々は森村自身の身体を認める。そしてモデルの方に向かって絵筆を握る画家、すなわち我々には背を向けて決して振り向くことのない画家にも、我々は森村自身の表情を想像する。ここで画家は17世紀オランダの風変わりなファッション、折り紙で作られた七夕飾りの提灯のように細い布切れが何本も縫い留められたジャケットを纏っている。絵画に描かれた光景を再現して、そこに自らの身体を滑り込ませ、他者を演じることの快楽を知るのはここでは森村だけだ。だが、過去の時代の衣装を身につけた森村の演劇的身振りを見ることもまた、鑑賞者の楽しみの一つに他ならない。そして実はこのような「仮装」あるいは「変身」への熱狂的まなざしこそが、ファッションに対する学問的アプローチの源にはある。

1990年代以降のファッション研究の興隆とともに、近年では「服飾」という言葉を聞く機会は減りつつあるが、流行の衣服や装飾品を実証的に研究する分野と言えば「服飾史」であった。服飾の歴史と名乗る本を紐解いてみると、大抵は古典古代からの衣服の歴史が解説されているが、服飾史自体はロマン主義時代に育まれた学問である。懐古的な芸術思潮のもとに、歴史的事件や異国の風俗描写が人気を呼び、とりわけ演劇では役者たちの役柄を示す服飾表現が場面設定において重要な役割を果たすようになる。そこで当時(過去)の人々、地方の人々が身につけた衣服や装飾品を知るための実際的な資料として、絵画や服飾版画集が参照され始めた。服飾史の嚆矢と見なされる『フランス服飾史』(J・キシュラ)には、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のユスティニアヌス帝のモザイク画やクルーエによるアンリ2世の肖像画など、歴史的絵画を模した白黒図版が数多く掲載されている。実在する絵画・彫刻作品などの視覚的資料を元に服飾の歴史を再構成する学問的態度の背景には、人々の服飾に対する歴史的・地理的興味がなければならない。つまり服飾史とは「仮装」や「変身」がまさに「流行」していた時代の産物なのだ。ところがその後の服飾史の問題は、「仮装」や「変身」がもはや「流行」の中心ではなくなった後世の衣服にまでも、時代や治世に区分された様式的方法論が適用されたという点にある。そしてこの服飾史の方法論批判を展開したのがロラン・バルトであった。

バルトの『モードの体系』と言えば、記号学においては古典的著作に位置づけられ、現代のファッション研究においても流行の生成の仕組みを分析した学術的著作として認知されている。とはいえバルトが選択した研究対象はフランスのファッション雑誌、それも1958年から12ヶ月の間に出版された"Elle"をはじめとする数種の雑誌に書かれた「言葉」であったために、「現象」としての流行分析を好む現代のファッション研究で参照されることは数少ない。ましてやバルトがその著作を上梓した前後の時代の方法論的探求に関する数々のエッセイなどなおさらである。バルトはすでに「言葉と衣服」のなかで、服飾史は一着一着の衣服の事実の詳細な歴史を打ち立てたが、システムの記述をすることはできなかったと述べている。衣服からあるスタイルを恣意的に導きだし、他のスタイルと恣意的に関連づけることによってスタイルの類似性を発見しようとも、それはトートロジックな試みにすぎない。そこでバルトが注目するのは、衣服の事実ではなく機能である。なるほど現代においても流行は変化し続ける。数年前の冬はロングブーツが流行したが、去年にはさらに長いニーハイブーツ、ところが一転、この冬はショートブーツが旬だった。だが雑誌がそれらを語るのは、世の中にそのような流行が見られるからではない。雑誌が語るからファッションは生まれるのだ。雑誌の他愛無い「おしゃべり」の目的はただ一つ、「ファッション(モード)」を意味することに他ならない。バルトは言う。「いかにも欲望を起こさせるものは対象〔物〕そのものではなく名前であり、人に物を売るのは夢ではなくて意味のしわざなのだ」と。流行に倣って次々変身する女性たちを尻目に、バルトはファッションにおける不変の構造を取り出した。

バルトが『モードの体系』を上梓してから早くも半世紀、市場経済の一端を担うファションの予定調和の歴史記述は未だに続いている。ファッションの歴史を記述することの困難は、「ファッション」いう不確かな対象の捉えがたさにある。ファッションは身体をいかようにも変化させてきたが、逆にファッション自体がメタモルフォーゼと言えるのではないだろうか。そもそも「ファッション」とは何だろう。服飾史の研究者は、スタイルの変化が服飾に現れたのは中世後期だというが、社会学者は近代資本主義の成立と流行現象の発生を関連づける。研究者間でも認識に相違があり、「ファッションとは何か」と問うことが、多様な学術分野の研究者がゆるやかな集合体を作るファッション研究の使命であるかのようだ。ならばここではあえて問いを変えてみよう。問題は「ファッションとは何か」ではなく、「ファッションと呼ばれるものはどのように構築されてきたのか」である。単純化を恐れずざっくりと歴史を振り返るならば、近代以前の階級社会ではファッションはごく一握りの上流階級のものであった。「ファッション」とは「作法」と呼ぶべきものであり、自らの身体とその所作によって他者の差別化・同一化を図る手段であった。例えば16~17世紀の肖像画に良く見られる「襞襟」は、礼儀作法に則り、良き作法の持ち主であることを他者に誇示する、下着の表出とも言うべき装飾であった。一方、近代以降の市民社会では、ファッションは民主化されたが専ら女性が享受するものとなった。資本主義社会で産業として成立したファッションは、女性をターゲットとして社会階層の新たなヒエラルキーを作り出す。流行の装飾品で身を飾り、夫である男性の社会的・経済的地位を誇示する女性たち。その振る舞いを「顕示的消費」と呼んだのはヴェブレンだ。このように「ファッション」の成立要件は時代や社会構造の変化とともに大きく変わっている。

しかしそれ以上に注目すべきは言葉そのものである。「作法」とは簡単には変わらない習慣のことを指している。一方の「流行」とは常に移ろうものだ。「ファッション(fashion)」という言葉には、歴史的に相反する意味内容が同居してきたのである。(英語の“fashion"は「つくり」「かたち」といった意味から「習慣」や「作法」を経て、「流行」「社交界」などと意味を多様化させてきたが、元々「生活様式」「行動様式」の意味を持つフランス語の女性名詞“la mode"は、「様態」や「形」を意味する男性名詞“le mode"の登場により意味を先鋭化させたと言える。)すなわち、まさしく不変から変化へと化身したものこそ「ファッション」なのだ。それではメタモルフォーゼとしてのファッションにおいて、歴史を通底する機能とはいったい何なのだろうか。それは「作法」を身につけ、あるいは「流行」に倣うことによって自らの身体を際立たせ(時に目立たなくし)、社会的視線のもとに置く機能である。「ファッション」とは人間の身体を常に見られるものへ、表象されるものへと変える装置である。表層の劇場は今もなお、豊かな変身劇を見せてくれる。だからこそファッションに対する学的アプローチは、見た目の華やかさに隠れた、見えない構造にこそ向けられるべきなのである。

平芳裕子(神戸大学)