研究ノート | 大池 惣太郎 |
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ヴェズレーの空と〈戦争〉の時間――ジョルジュ・バタイユ没後50年に寄せて
大池 惣太郎
今年はジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の没後50年に当たり、フランス各地で大小様々な催しが予定されている。筆者は現在パリ第七大学の博士課程で、この作家のテクストに現れる「対立」・「裂け目」・「空虚」・「切断」の要素を、同時代の諸戦争と密接に絡んだ多元的な〈戦争〉のトポスとして捉え、そこでバタイユがどのように人間の歴史経験の意味を捉え返していったかを研究している。バタイユは、五月革命の前に世を去ったという意味で、現在目にする世界からは一つ隔たりのある時代を生きた作家である。彼はいわゆる「復員兵の世代」、すなわち第一次世界大戦後、人間の意味的な表象世界を離れ、事象のより唯物的な領域において「現実」の概念を再構築しようとした若い芸術家や知識人たちの世代に属している。マルクスに後押しされつつ開花したこの唯物性と魔術性を要り混ぜた新たな思想が、全体化し自走する巨大な戦争機械としての第二次世界大戦の唯物性のなかに力なく飲み込まれていった時代、バタイユは何を考え、何を目にしていたのだろう。
そんな問いを頭の片隅に置きながら、筆者は、3月22~24日にクリスチアン・リムーザン氏を招きブルゴーニュ大学で開かれたコロック※1 を機会に、バタイユが第二次大戦中に疎開していた町、Vézelay(ヴェズレー)を訪れた。
モルヴァン地域自然公園の北西に位置するヴェズレーは、9世紀に建てられた聖マドレーヌ教会堂を中心に寄り集まる人口500人足らずの小さな街で、周囲には見渡す限りなだらかな丘陵の景色が広がっている(図1)。街は中世の城砦に囲まれたひときわ小高い丘の上にあり、遠くから見ると、緩やかな勾配に張り付いたような集落の姿が、かえって途方もない空の青を際立たせる。
占領時代、政治的擾乱を避けるためパリと地方を転々としていたバタイユは、1943年1月たまたま訪れたこの風光明媚な街を気にいり、その年の3月から娘と愛人と共に移り住んだ。彼の住居は、街の入り口から教会堂へ続く坂の中ほどにあるグラン・ピュイ広場に面した簡素な二階建ての家で、通りの反対側の面は、切り立った城壁の上に頂く小さなテラスになっている(図2)。今はある作家が住んでいるため残念ながら直接中を見ることはできなかったが、保管された写真から、丘陵と虚空へと開けたテラスの美しい展望を知ることができる(図3,4)。バタイユはその年の10月までこの家に滞留し、ときに親しい友人を迎えながら、そこで書きかけの『有罪者』(Le coupable, 1944)を執筆した。
今は観光地になっているこの穏やかな街も、大戦中は大きな不安と死の影が取り巻いていたようである※2。しかし、『有罪者』の中に、そうした戦争の影はあまり見られない。むしろ見つかるのは、戦時にもかかわらず、自然に囲まれた田舎街の中で奇妙なほどくつろぐバタイユの姿である。「深い真実の数々。田舎の午後、五月の大いなる太陽、私は部屋の窓際にいて、暑い、幸福だ、私は上着を脱ぐ」(Œuvres complètes, tome. V, p. 355)。バタイユはヴェズレーの牧歌的な田舎の風景を深く愛した。と同時に、彼がそこで戦時下の重苦しい緊張とは別の、陽気さと入り混じった奇妙な不安を生きていたことが、以下のような文章から伺われる。
途方もない不確実(アレア)。
入れ替わり(alternance)(流れてゆく小川と、水面の上を駆ける鷲との)。川の蛇行(メアンドル)。筆の及ばぬ景色、鬱蒼とし、多様で、不調和から成って「笑いかけている」。そこにあってはすべてが調和を乱している。くつろぎの後から居心地の悪さが犬のようについてくる、狂った犬のように、ぐるぐる輪を描きながら、現れたり、消えたりして。私は笑いについて語っているのだ。(Ibid. p. 335)
一見のどかな自然世界は、バタイユの目に和やかな調和的な風景としては現れていない。流れる小川の上を一羽の鷲が横切る、と、彼は瞬間に交差した二つの要素の運動のうちに、偶発的で不確実な世界のあり様を見いだすのだ。緊密に関わり合っているかに見える風物は、ふいに関係性を失ったばらばらな要素として現れる。それらが次々と脈絡を欠いたまま入れ替わる世界が、バタイユに居心地の悪い不安と深い喜びを同時に惹起する。
穏やかな風景が、そのような混沌として現れるのはなぜだろうか。彼の視線の先をさらに辿ってみる。
右手に、穴のあいた煉瓦の切り妻。大きな膜翅目の昆虫が、ぶんぶんと、自分の家に帰るように穴の一つに入ってゆく。切り妻の頂で、空が青い、空は荒々しく、すべては打ち砕かれる、私は逃れようのない峻厳なるものを意識した――私の愛するそれを。(Ibid.)
春の午後、バタイユの視線は、小さな昆虫の営みからその上に拡がる空へと横滑りする。すると、眼前の個物は、背後の巨大な「逃れようのない峻厳なる」空っぽの空間のなかで打ち消される。牧歌的世界を「途方もない不確実(アレア)」として浮かび上がらせているのは、この具体と虚空の間の絶え間ない往還であるように見える。街を包む巨大な空、あの高台のテラスから覗くヴェズレーの虚空が、個の営みの一つ一つを、ばらばらの覚束ない存在として瞬間に浮かび上がらせては、また空白の中に飲み込んでいくのである。「私の前の地平線(開かれた地平線)。村々の向こう、いくつもの街の、食らい、しゃべり、汗を流し、服を脱ぎ、寝床に入る、そうした人間存在の、はるか向こう。まるでそれらなど存在しないかのように。」(Ibid.p. 358)
こうしたヴェズレーの日々は、バタイユの同時期の思想形成と無関係ではない。同じ頃、彼のテクストに唐突に現れる「好運」(chance)という言葉は、いかなる留保も、約束もなしに、「無規定」(l’infini)そのものとして存在する世界の、途方もない寄る辺なさの感覚に裏張りされている。もちろん、そこにはやはり戦争という時代背景も密接に関わっているだろう。政治の中心から何重にも遠く引き離され、社会への能動的な関わりを奪われながら、同時に歴史の動乱、――というより、次に語られだす歴史の開始の手前で方向を喪失したまま今だその姿を決めかねている途切れた時間、――のなかで過ごす日々は、現在目にする世界の秩序が次の瞬間にまったく別の姿に変わるかもしれない、あるいは消滅するかもしれないという、「不確実」の認識と深く共鳴していたにちがいない。
ヴェズレーの虚空と大戦中に現れたバタイユの「好運」の思想は、彼の中で確かに深く結び付いている。リムーザン氏に案内され、丘の街をめぐりながらそのことを確認したとき、「空」(ciel)や「空虚」(vide)「無」(néant)といった形象が、バタイユのテクストにいかに多く散りばめられているかということがあらためて思い出された。スペイン戦争直前の不安な「空の青」や、『無神学大全』で歌われる「星をちりばめた透明な空」は言うまでもなく、例えば彼のヒロシマ論においても、瞬間の視像よりほかに意味を送り返さない「動物的表象」の世界を形容するため、「風や光が大気を満たすような」というメタファーがそっと書き添えてある。
バタイユと事象世界との間には、ある「具体的な無」と言うべきものが介在している、――それはヴェズレーを訪れて筆者が感じたいまだはっきりとは掴めない印象にすぎず、また今ここでそれを詳しく論じるべきでもないだろう。いずれにせよ、20世紀前半の思想家としてのバタイユが今日なお重要であるとすれば、それは彼が、「物質」として露呈した事象世界に対し人間がとり結ぶべきコミュニケーション、あるいはネゴシエーションの可能性を早くから示唆していた点にあるように思われる。近年、バタイユを、「物質」の変容と多様性へと開かれた唯物的思想家として読解する研究も現れている※3。しかし、バタイユの唯物的世界をめぐる認識が、同時にそこから彼を引き離し、不確実さの中に放り出すある「具体的な無」の隔差によってはじめて動き出すのだとしたら、もはや事象の内には位置づけられないその隔差を、どこに、どのような言葉で論じていけばいいのだろうか。20世紀の「戦争」も、あるいはまたそのような「無-差異」を認識させる――破滅的な――装置であったのかもしれない、そんな思索をめぐらせながら、コロックで知り合った研究者たちと共にヴェズレーを後にした。
大池惣太郎(東京大学、ディドロ・パリ第7大学)
※1 « Colloque international Georges Bataille - une érotique du mal »、2012年3月22~24日、ディジョン・ブルゴーニュ大学+ヴェズレー市庁、主催:Association Coalition Cyborg、Faculté de Lettres de l'Université de Bourgogne.
※2 「通りはドイツ色一色に沈み、教会堂は閉鎖され、井戸は汚染されていた(占領軍が死体を井戸に捨てたのだ)」。ミシェル・シュリヤ、『G・バタイユ伝〈下 1936~1962〉』西谷修、中沢信一、川竹英克訳、河出書房、1991年、142頁.
※3 例えば、Boyan Manchev, L’altération du monde. Pour une esthétique radicale, Éditions Lignes, 2009. .
図1:バタイユが訪れたのとほぼ同時代に撮影された、ヴェズレーの写真。Vézelay, Paris, Éditions "Tel", 1938 (c1943).
図2:バタイユが住んだ住居(撮影筆者)
図3:シュリヤ、『バタイユ伝』に収められたディアーヌ・バタイユが保管する写真。
図4:同上。左からバタイユ、後の妻ディアーヌ、ジャン・コスタ。