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日高優
アイェレット・ゾーハー氏と東京・恵比寿のギャラリーMEMで3月半ばにお会いして直後、何の符合か、メタモルフォーゼを特集する今回の『REPRE』15号への巻頭言執筆の依頼が舞い込んだ。ゾーハー氏と話した内容は、ちょうどメタモルフォーゼについてだった。
ゾーハー氏はアーティストであり(とりわけ東アジアの)視覚文化の研究者、キュレーターとして精力的に活躍し、ヘブライ大学東アジア学科で教鞭をとっている。氏には森村泰昌、北野謙、澤田知子といった日本の写真家のポートレイトを、アイデンティティ表象の観点から考察した論文がある。とうに執筆されていてもよさそうなものなのだが、アイデンティティを切り口にした写真作品の分析というものが殆どまだまとまった形でなされていないなか、ゾーハー氏はそれをおこなっていた。さらに日本の作家の作品を多く取り上げているということでも私はゾーハー氏の仕事に関心を抱き、彼女に時間をつくっていただいて話す機会を得たところだったのだ。
帰国前の慌ただしさのなかで彼女が語ってくれた話はどれも興味深く、特にカムフラージュを主題にした博士論文の話はきわめて興味深かった。私自身、かつてアンディ・ウォーホルの作品をカムフラージュの技法の観点から読み解く論考を発表したり、写真とアイデンティティをテーマに掲げた授業でメタモルフォーゼを検討したり、前回の表象文化論学会第6回大会では企画委員として森村泰昌氏を特集するイベントを組織したりしたこともあって、変装、擬態、変身、憑依、他者になることなどをひっくるめたメタモルフォーゼというテーマは、いつも私の心のどこかに少なくともここ何年かは確実にあった。言うまでもなく、メタモルフォーゼのテーマ自体は真新しいものでは全くないし、広く共有される問題だ。ともかくもここで確認したいのは、メタモルフォーゼのテーマはいまなおアーティストや研究者を惹きつけており、ここ何年かでその成果がさまざまなかたちで目立って世に問われていきているように思われるということである。人類学とアートの出会いにおいて「変身-変容」をテーマに人間とそうでないものとの境界を探ることを目指した中沢新一・長谷川祐子両氏の共同企画、東京アートミーティングの第一回展覧会「トランスフォーメーション」(東京都現代美術館、2010年10月29日~2011年1月30日)の試みもわれわれの記憶に新しい。
ではなぜいま、メタモルフォーゼなのか。その具体的理由はさまざまあげられるだろう。後期資本主義の袋小路とみえる状況、グローバル化し流動性が高まると同時にますます閉じていくとみえる社会の状況がわれわれの日常を覆い尽くしてなかなか変化をみせないなかで、自己の側が変化することで環境と自己の関係を刷新し、閉塞に風穴を開ける――メタモルフォーゼとはそのような営為ともなりうる(だから、それは快の感覚を携えるものともなるのだろう)。あるいは世界各地では自/他の境界ゆえに現在も血が流され、憎悪の歴史が続く過酷な状況があって、メタモルフォーゼは自に他を、他に自を見出すことでその境界を揺るがし、固定化した暴力の構造を揺るがす契機を模索する営為ともなるだろう。例えば、森村泰昌氏が〈「独裁者ヒトラーになるチャップリン」になる〉という、〈他者になる〉入れ子構造の映像作品《なにものかへのレクイエム(独裁者を笑え/スキゾフレニック)》(2007年)において、どこか滑稽さを湛えたヒトラー=チャップリンの身体の模倣を通じて自/他の境界と善/悪の境界の同一化を無効化したように。さらに、先の「トランスフォーメーション」展の概要にも記されていたように、「インターネットやグローバル経済、テクノロジーの発達によって、従来の社会に属する「人間」という形がぶれはじめ、その存在には、かつてないほどの多様性が生まれつつあ」り、メタモルフォーゼが人間はどこへ行くのかというポストヒューマンの問題系と接続して展開していることも大きい。とまれ、人びとをこのテーマへ照準させる背後には、社会が見通しがたく閉塞しているという状況認識と感受とがあるように思われてならない。
また、日本の場合、状況が複雑化しているがゆえに一層、メタモルフォーゼの可能性が多くの者を惹きつけているのではないだろうか。日本では近代のプログラムが求めた〈確固たる個〉とそれを前提とした諸々の社会制度が十全に成熟する前に既に破綻していることがあらわとなって、しかしそれでも根底から社会状況に変化の兆しがみえにくいなかで、私が一大学人として若者と接して気づかされるのは、閉塞への感度の高い者のなかにはファッションやコスプレなどを通して(大半は拙いながらも)メタモルフォーゼの契機を切実に探している者がいるようだということだ。また、私が研究している写真に関して言えば、メタモルフォーゼをテーマとする日本の写真家は少なくない。
私がメタモルフォーゼに関心を持ったのは、こうしたことが小さくなかった。
メタモルフォーゼの可能性はまだ見定めがたい部分もあるが、快から切り込むにしろ、その営為に倫理を探索するにしろ何にしろ、その可能性はいま、多くの者を惹きつけていることは確かである。
日高優
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今回の『REPRE』では、学会誌『表象06』の特集企画「ペルソナの詩学」と連動して、小特集「メタモルフォーゼ」を企画しました。学会誌とあわせてお読みいただければ幸いです。(REPRE編集部)