研究ノート |
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サスペンス映画の歴史
三浦 哲哉
アルフレッド・ヒッチコックは自身が作るサスペンス映画のなんたるかについて説明するとき、好んで「テーブルの下の爆弾」の例を引き合いに出している。爆弾を提示する手順によって、その場面がサスペンスになるかならないかが決まるというのだ。1、テーブルの下に隠された爆弾が、登場人物にも観客にも知らされることなく突然爆発するとしたら、ほんの一瞬のサプライズ(驚き)しか生じない。2、テーブルの下の爆弾が、登場人物には知らされていないけれども観客にはあらかじめ知らされているとき、このシークエンスの間中、サスペンスが成立する。爆弾の存在を知らない登場人物が、例えばなに知らぬ顔で会話に興じるとき、観客はその爆弾のことでいてもたってもいられず、否応なしに感情移入することになるわけだ。ヒッチコックはサプライズに対して、イメージの構成におけるサスペンスの原理的な優位を説き、自身の映画のあらゆる場面をサスペンスで満たそうとつとめたのだと述べている。
観客に与えるよりも「遅らせて」登場人物に情報を与えること。ヒッチコックが述べたこのような情報提示の秩序について、アメリカの映画学者デヴィッド・ボードウェルは、説話論研究の観点からこれを「遅延」の技法と名付けている。観客への情報提示と、登場人物への情報提示、その「遅れ」が緊張を生み出す。ボードウェルはさらに、このようなサスペンスの構成において、少なくとも3つの視点の分離が前提されていると述べる。登場人物の視点と、観客の視点と、語り手の視点である。登場人物と観客とには個別に情報が与えられるわけだが、すると、その操作主として、両者に先立ってあらゆる情報を持つところの「語り手」が想定される。サスペンス映画とは、以上の三項関係で構成されたテキストであることになる。そして現在もこれがサスペンスの標準的な理解である。個々のサスペンス映画のラストシーンではこの三者が同じ情報を共有し──謎が解消し、サスペンスが閉じられるというわけだ。また逆に、個別的、断片的に提示された情報を統合する審級こそがサスペンス映画を成り立たせる条件であるとも言える。エドガー・アラン・ポーについて言われるのと同様に、あたかも平面に述べ広げられたかのようにあらゆる因果関係を一望のもとに見渡す視点がなければ、「謎解き」としてのサスペンスは成立しない。
ところで、あらゆる情報を保持し、操作する「語り手」なる審級は、常に映画の所与としてあったわけではない。ボードウェルがサスペンスを定義して述べた「遅延」にしても、制度論としての「古典映画」研究の中で提出された概念であるに過ぎない。つまりその歴史性がここでは捨象されている。歴史的に考えるならば、サスペンス映画の条件であるといわれる「語り手」、つまりは超越的な視点は、特定の時代の産物だと考えられるべきである。例えば、最初期の映画には、個々のイメージ断片を統合する一定の規則は存在しなかった。仮にヒッチコックの設計するシークエンスには全体を統合する安定した視点が設けられているのだとして、その地点に至るまでに、映画は様々な生成の道筋を辿ってきたのだと考えるべきであり、その都度それぞれ異質なサスペンスのかたちがありえたはずだ。
本研究は、しばしば普遍的な型として理解されてしまうことの多いサスペンスの表現形式を、その歴史的な生成過程に即して記述しようとする試みである。例えば黎明期の映画がイメージ断片を統合するその仕方と、トーキー以後のそれは無論、同じではない。そしてサスペンスが、失われた因果関係の再構築──断片的な視聴覚情報の再統合こそを問題にするジャンルである以上、個々のサスペンス作品は、表象形式としての映画のその時々の限界を露骨に反映させているに違いない。「サスペンス映画の歴史」を主題として取り上げることの興味もここにある。サスペンスは端的に述べて、「未知」の表象に関わり、あるいは「見えないもの」の表象に関わるがゆえに、ほとんど異化効果とすれすれのところで、映画における表象作用の臨界点を指し示すだろう。
そもそも「サスペンス」をその本来の意味に即して理解するならば、それはまず「宙吊り」のことを指す。例えば、フランスの美術史家であり特異な映画理論家でもあるジャン・ルイ・シュフェールがその著書で強調していたような、観客に認知論的な判断停止状態を強いるものとしての「サスペンス」(suspens)」に立ち戻って、このジャンルを再考することもできるだろう。そのとき、サスペンス映画は、視線を分断し(同時に)再構成することによって、観客が依拠する既存の認識論的フレームを「中断」あるいは「宙吊り」にするような制度拡張の試みとしてあらわれる。
「見えないもの」や「不可知のもの」、その原因と結果とをあらかじめ保持・操作する超越的な視点から逆算して考えられた「サスペンス(suspense)」 と、そうした因果論的一貫性をなし崩しにすることを試みる「サスペンス(suspens)」。両者の相克を焦点としたときに、サスペンス映画の歴史はその多様性を十全にあらわにするだろうと考えられる。本研究は、サスペンス映画が消費された土壌、社会的背景を含む広範な実証的歴史研究を基盤にするものであるが、以上の観点において、映画のメタ・ジャンルともいうべき「サスペンス」のステータスを確証できるだろうと考えている。
三浦 哲哉