研究発表集会報告 シンポジウム「記憶の体制」

シンポジウム 「記憶の体制」

オレオレ詐欺師と霊媒師―「記憶の体制」を狂わせるもの

報告 : 柳澤 田実

11月18日(土) 14:00-17:00 研究講義棟227教室

シンポジウム 「記憶の体制」

【パネリスト】
岡崎 乾二郎(美術家・近畿大学)
岡田 温司(京都大学)
小林 康夫(東京大学)
田中 純(東京大学)
和田 忠彦(東京外国語大学)

【司会】
松浦 寿夫(東京外国語大学)

「記憶の体制」と名付けられたシンポジウムでは、五人のシンポジストから表象と記憶を巡って問題提起がなされた。各シンポジストの提題が進むにつれ、また後半のディスカッションを通じて、照準は、徐々に「情動」そして「感情移入」の問題へと収斂していったように思う。

最初の提題者、岡崎氏は、変化や運動を記憶するために定型的イメージが介在するという事例を、18世紀のホガースを中心に豊富に提示した。こうした運動を記憶へと媒介するパターン化されたイメージの問題といえば、アビ・ヴァールブルグの「ムネモシュネ」が即座に想起される。自らを古代の「亡霊/パトス」に共振する霊媒師と自認していたヴァールブルグは、古今東西のイメージの中に「情念定型(Pathosformel)」を見出したが、こうしたヴァールブルグ流の「情念定型」探求の事例は、上記のホガースに始まり歴史上数多く見出されるそうだ。また、こうしたイメージと運動にまつわる問題関心は、レッシング、ヘルダー、そしてしばしばヴァールブルグと対立的に捉えられるヴィンケルマンにも共通であったという。ホガースが、運動を記憶へと媒介するイメージとして用いたのは、人間の四肢が保つ形態(ex.ラオコーン、ダンスをする身体)から、ほくろの毛にまで見出される「S字」のカノンであった。その他にも、中国の体操マニュアルや、フェンシングやダンスの教本、カニングハム、フォーサイスらによる身体ダイアグラム、図形楽譜等々。これらのイメージは「感情移入・身体的行為を代行」し、「記憶のフォーミュラ」を形作ると岡崎氏は述べる。岡崎氏によれば、この「感情移入」というある種の「集中」が、先にも述べた定型的イメージによって統御されることによって、人は「納得し」、そこに「主体」が形成される。かくして、われわれは、岡崎氏の導きによって記憶を可能にするイメージ群を経巡った後、ヴァールブルグ的実践の最新の事例として、「オーラの泉」の霊媒師、「美輪明宏」を目撃することになった。

続く岡田氏の提題は、記憶を成立させるアウラについて、物質性の側から主題化するものであった。話は1980年代の絵画と建築の洗浄ブームから始まる。ブランカッチ礼拝堂を始めとして、様々な歴史的絵画や建築の表面を洗い流し、表面の色調をひたすら明るくようとするこのシンドロームの理由は何なのか。岡田氏によればこうした洗浄ブームは、過去に何度か生じている。フランス革命後には、啓蒙の実践として、あるいはアンシャンレジームの古さを洗い流すために、あるいは、ポンペイの発掘によって喚起された断片化への恐怖を克服するために、作品は洗い流された。大戦後間もない時期には、戦争の暗い記憶を払拭するために、作品は漂白された。このように洗浄の理由は多岐に渡るが、いずれにしてもこれらの現象に見え隠れする動機は、プラトン起源の原型(オリジナル)神話だという。岡田氏は、洗浄によって現れるのは所詮「未来に向かうわれわれの欲望」でしかないと喝破し、オリジナルの真正性を求めるアナムネーシス型の記憶ではなく、様々な人々の記憶によって作られてゆく作品の記憶/ムネモシュネへとわれわれの意識を促した。そして、こうしたムネモシュネ的記憶を構成するものとして、岡田氏によって光を当てられたのが「ほこり」である。時間の移行、人の生きた痕跡、光を可視化する「ほこり」。それは物質であると同時にメタファーでもある(「叩けばほこりの出る体」)。岡田氏の提題は、「ほこり」を、事物の痕跡として見せる1970年代のパルミジャーニのインスタレーションによって締めくくられた。

「ほこり」のアウラ性が示唆されたところで、次に、田中氏からは、リベスキンド、ランズマンによる記憶のイデオロギー化、マーケティング化への批判が、極めてクリアな語り口でなされた。「表象不可能性」、「不在の周りの映像/建築」というリベスキンド、ランズマンの専売特許となったお馴染みの議論は、もはや現実においても、理論的にも、無残にそのほころびを露呈させている。田中氏は、ユベルマンに依拠しつつ、結局われわれは、「残されたイメージを丹念に精査する」以外ないと主張する。なぜなら、こうした「丹念さ」の割愛こそ、記憶を巡る議論を単純化させ、その単純化によって「記憶のマーケティング化」が生じるからである。単純化されたトラウマ論もまた、われわれが忌避すべき理論に他ならない。「トラウマの抑圧と抑圧されたものの回帰」というクリシェを繰り返すのではなく、抑圧自体を精査することが重要である。何よりも待たれるのは、「トラウマ論に変わる記憶の理論」だという田中氏の主張は、この「記憶の体制」というシンポジウム全体が向いている方向を、明確に指し示していたように思う。

次いで、小林氏からは、大脳生理学者ラマチャンドランの議論を土台に、器質機能主義からの表象主義に対する批判とそれにまつわる問題提起がなされた。極めて親しい人だけを別人だと思うようになるシンドロームがある。外見の同一的認知はできていても「偽者」だと主張するのだそうだ。かといって、完全に「偽者」だと考えるのではなく、声においては真正性を認めるというのが、この症例の極めて興味深い特徴である。親しい家族においてのみ誤認が生じるこの症例は、通常は精神分析の管轄に回され、田中氏も言及していた「トラウマ理論」の格好の適用対象にされるそうだが、ラマチャンドランは、これを批判する。ラマチャンドランによれば、この症状は、認知から情動への回路の切断による、要するに器質的なものなのである。表象主義はこのような症例に対して、何を言うことができるのか、と小林氏は問う。ここで一つのヒントとして示唆されるのが、岡崎氏も主題化していた「情動」「感情移入」である。小林氏によれば、この情動と表象の連結こそが、「近さの体験」を生むのであり、芸術作品の体験とはまさにこうした「近さ」と「遠さ」の同時的経験に他ならない。「情動」の果たす決定的な役割は、先の症例における「声」にも現れていた。表象より直接的に情動を注ぎ込む「声」は、先のシンドロームの患者に、話し相手が家族であることを疑う余地を与えなかった。だからこそ、「声」は決定的な「騙り」(オレオレ詐欺)を可能にすると小林氏は述べる。この小林氏のいささか冗談めいたコメントは、「記憶の体制」のいわば痛点に触れる、極めて重要な指摘であったと思う。

最後の和田氏の提題は、書物を取り巻く構造からの「記憶の体制」への問いかけとなっていた。話は、ウンベルト・エーコによる記憶の定義から始まる。死への恐怖の克服のための「記憶」。共同体における「記憶」の共有のために「文字」が発生し、その「文字」を特定のメディアの表面に刻印することによって「書物/テクスト」が生まれた。かつて共同体の膨大な「記憶」の前に呆然と立ち尽くし、その中から記憶すべき情報を選択して文字を刻んだのは、ある特定の個人であったが、この個人の存在は決して問われることはない。つまり、「書物」の誕生によって、はじめて「記憶」の主体は「著者」として明確化し、同時に読者にとって「記憶」は「解釈」の対象になったのである。しかし、更にボルヘスやヴィーコを参照しながら明らかになるのは、記憶の座にいるはずの語り部が、実のところは決定的に「不在」であり、「記憶」を真に担うのは、「解釈」によって「記憶」を送り出す読者のほうだという事実である。すなわち、語り手の記憶が語られる際に、記憶は、「読者を終着点とする旅へと送り出されているのだ」と和田氏は述べる。そして、「書物」という記憶の容器は、いわば「記憶が逗留する場」であると。

ディスカッションでは、岡田氏により、記憶を情動として捉えていたヴィーコが引き合いに出され、また田中氏からは、ヴァールブルグの歴史記述を可能にする「情動の転位」についての言及があり、和田氏からは、「歴史的情動」の表象化としての「地図」という話題が提供された。また、会場にいた松浦寿輝氏は、映画に「雨をふらせる」フィルム上の「傷」に対する自らの「感情移入」を語り、佐藤良明氏は、人々の記憶を錯乱させつつ態勢付ける文化産業/ポップカルチャーについて語ったが、こうしたコメントも全て、われわれの記憶のフォーミュラ形成に関わりつつそれを狂わせる「情動」についての敷衍であったと言えるだろう。

記憶を繋ぐイメージ、そのイメージに不可欠な情動、アウラを生みだすほこりや傷(トラウマ)、記憶のマーケティング、感情移入と誤認、そして、記憶を構成する解釈といった問題を経巡るうちに、「記憶の体制」を「狂わせるもの」が、逆説的に際立っていったように思われる。「情動」、そして「情動」を強力に誘発する「声」と「アウラ」である。それらの情動の喚起力は極めて強く直接的であるがゆえに、人々に錯誤を生む。小林氏は、「声」が誤認を招く事例として「オレオレ詐欺」に言及し、岡崎氏は、「亡霊/アウラ」の事例として「オーラの泉」を提示した。「オーラの泉」の中では、美輪明宏の「声」の「ゆらぎ」が媒介となって、「美空ひばり」と「ジョン・レノン」が、あたかも美輪の守護霊のように発見されていたが、この現象もまさしく声・アウラ・情動の親近性を示しているように思われる。オレオレ詐欺師と霊媒師。考えてみれば、両者は似ているのかもしれない。不特定多数の「息子」を口寄せできるオレオレ詐欺師とは、現代の天才的なイタコだと考えられなくもないだろう。彼らはなぜ他者の記憶を操作できるのか?これは見過ごされるべきではない問いである。田中氏がわれわれの課題として示した「トラウマ理論に代わる記憶の理論」の可能性は、昨今メディアを賑わすこの策士たちの巧みな技(アルス)にこそ、潜んでいるのかもしれない。

柳澤 田実