国際イベント

ベルリン「こころ」シンポジウム
山本 久美子

去る2006年11月2-3日、ベルリン日独センターにおいて、国際シンポジウム「こころ」が同センター、東京大学共生の哲学センター(UTCP)、小西国際交流基金(後援)により開催された。国際シンポジウムの名にふさわしく、東京から6名、アメリカから1名、欧州内から3名の研究者が集い、複数の観点から「こころ」について討議を行った。シンポジウム第1日目は多様な分野の研究者を招待し、専門的な主題をあつかった。会場は研究者や学生の熱気にあふれかえった。

日独センター理事のフリーデリケ・ボッセ氏の歓迎の辞につづいて、小林康夫氏(東京大学、UTCP)が基調講演を行った。小林氏によれば、「こころ」とはフランス語のâme、esprit、cœur、ドイツ語のGeist、Herz、 Seele、さらにはDaseinと比較しうる「根‐言葉」であるという。日本の文化・伝統に深く根づいた「根‐言葉」は、多声的、曖昧、そしてほとんど翻訳不可能な言葉である。しかし同時に世界と世界内のわれわれの存在を理解し、また問うことを可能にしてくれる言葉でもある。つまり、「根‐言葉」はわれわれに哲学「する」ことを可能にしてくれる。そうした「根‐言葉」である「こころ」を「外気」や「外の光」――参加者を祝福するように、日独センターの会場は光に満ちていた――に曝し、東西間の哲学的対話を開き、思考の砂漠に(知ること、理解することに向かって開かれた)「哲学(philo-sophia)の樹」を植える、それが会議の目的である。

11月2日午前のパネルは 「Kokoro-Compelx in East and West」と題し、東洋の大地に接木された西洋の「こころ」の変容と受容を論じた。黒崎政男氏(東京女子大学)と中島隆博氏(東京大学、UTCP)はそれぞれアリストテレスの『デ・アニマ(De Anima)』の日本と中国におけるインパクトを考察した。日本、中国の仏教徒は人間と動物の魂を区別しない。このため東洋を訪れたキリスト教伝道師は、動物の魂に対して、人間の魂の固有性と不死性を強調する必要に迫られ、仏教徒と論争を繰り広げた。黒崎氏の発表は「Kokoro: from Heart to Mind」というタイトルであった。黒崎氏によれば、キリシタンたちは『デ・アニマ』の日本語訳に人間の「アニマ‐こころ」の不死性に関する一章を追加し、他の動物とは違い、人間は身体とアニマ・ラショナル(不死の魂)からなることを特記したという。現代の「身心論」の先駆けともいえる思考がキリシタン時代に展開されていたことを示す、興味深いエピソードである。他方で中島氏は、「Dont't Mix! Can Be Dangerous: De Anima in China」と題する発表で、中国の仏教徒たちの『デ・アニマ』論争について報告した。仏教徒は動物と人間の「魂の交わり」を主張し、人間の魂だけを別格扱いにするキリスト教徒に論争を挑んだ。もっともラディカルな「魂の交わり」では、異なるジャンルに属する魂が「物化」する。それぞれは自己充足的でありながら、しかしそれはすでに他のものへ生成変化を遂げたものだ。こうしたドゥルーズ的「悪魔的現実性」の可能性を肯定することで、人はそれまでの結びつきから開放され、「あらたな結合の自由」を手にし、究極的には世界そのものを変容する可能性が開かれる。中島氏が語る仏教は激しくラディカルである。洗練された語り口で会場を魅了したジョエル・トラヴァール氏(l’École des Hautes Études en Sciences Sociales, Paris)は、「Can Neo-Confucianism become post-Kantian? - Confucian Heart-Mind (Xin) and Intellectual intuition」というタイトルの発表で、現代中国の代表的哲学者である牟宗三(Mou Zongsan, 1909-1995)の(意図的な誤読による)カント倫理学の解釈を通じて新儒家がカント以降の哲学へと接続してゆく経過をのべた。

「The Mind and Culture」と題された午後のパネルでは、「こころ」を手がかりに、東西間の差異の理解およびその克服が試みられた。「Knowing by Heart: An Epistemology of Kokoro」と題する発表を行なったジョン・マラルド氏(University of North Florida)は、西村茂樹と西田幾多郎の読解および翻訳を媒介に、あらたな「こころ」のエピステモロジーを提案する。マラルド氏がいう「こころで知ること」はインタラクティブなプロセスであり、それは「われわれが物の方へ向かい、物のなかでわれわれ自身を見、物とひとつになる」という、自己と事物の有機的な相互作用である。これはどこか中島氏が論じた中国の魂の交わりを思わせるだろう。

高田康成氏(東京大学、UTCP)の「Mind the Gap: Kuki Shuzo and Karl Löwith」は、西欧と東洋の断絶に注目し、雄弁かつ情熱的に西欧的意識と東洋的感性のあいだに横たわる「ギャップ」に焦点をあてた発表であった。西欧の思考はつねに終焉の意識に囚われた、直線的思考である。これに対して、東洋とくに、高田氏が引く九鬼周造の東洋的感性は、反復的過程と偶有性によって代表される円環的思考である。九鬼は「永遠の現在が脈打つ瞬間」へのアクセスを可能とする、そうした東洋的感性にもとづいて、西欧的自己意識の脱構築を試行したという。「こころ」とは、切り離し、区別し、分類する西欧的思考に、それらをふたたびまとめ、丸め、ひとつにする契機を与える思考の運動をいうのではないか。直線はどこまでいっても直線だが、しかしどこかで線をひく手を回転させれば、線は弧をえがき、円が生まれる。この手のひとひねり、回転が「こころ」である。「こころ」は線を円へと転換し、線がはらむ二項対立緊張を運動のなかに解消する。しかし線そのものがそれによって消滅するわけではない。むしろ線そのものにたいする配慮を忘れずに、すすんで円の運動に身を任せることで、西欧でもない東洋でもないあらたな思考の地平が開かれるのではないか――二つのパネルから得た報告者の感想である。

シンポジウム第一日目はハイデッガーをめぐるマリオン・ハインツ氏(Siegen University)と北川東子氏(東京大学、UTCP)の発表で幕を閉じた。ハインツ氏は、「Critique of Reason and Heidegger's Thinking」と題する発表で、ハイデッガーの思考においてとりわけ重要な契機を取りあげた。ドイツ史において危機的な1928年から1929年にかけて、ハイデッガーは特定の聴衆にむけて講義を行った。ハインツ氏はこの講義を見直すことにより、ハイデッガーが伝統的哲学から遠ざかった理由の解明を試みた。ハイデッガーの思考におけるこの転回点、またそれを彼にもたらしたものが示唆する諸可能性の意義ははかりしれない。ある意味で、ハインツ氏の論考はハイデッガー哲学の「こころ」に触れたといえよう。二日間のシンポジウムで、テロリズムや暴力といった今日的なテーマに触れたのはおそらく北川氏だけであろう。北川氏はこうした主題に応答すべく、ハイデッガーと和辻という、存在論的観点から倫理的問題を思考した東西の哲学者を対置し、規範の存在論的出自を浮き上がらせる。北川氏の発表は「The Place of Ethics in Culture: Heidegger and Watsuji」である。倫理学は良心としての「こころ」につながるのかもしれない。「こころ」が多義的な言葉であるように、発表テーマも多岐にわたった。シンポジウム終了後も発表に刺激を受けた参加者たちの熱い議論がつづいたことを付記しておきたい。

二日目(11月3日)は一般の聴衆を招いて、小林康夫氏と坂部恵氏(東京大学名誉教授)による特別講演が行われた。興味深いことに、両氏とも「こころ」の場を能に見出している。「Aporia of Kokoro: The Passion of Being in the Noh Play」と題された講演で、小林氏は能のなかでももっとも品格が高く重要な「桧垣」に焦点を当てた。「桧垣」は二部構成で、シテとワキが登場するが、この二人はそれぞれ「こころ」の異なる位相を示す。ワキ僧は「こころ」を捨て、時間や生と死の向こう側へ赴き、「こころ」なき者となり、「あわい」の空間を開く。ワキがシテに出会うのはこの「あわい」の世界である。シテの身体はすでに燃え尽きている。しかしその「こころ」は他者へのパッションによってこの世に残留する。シテの老白拍子はパッションを運んでいく白川から開放されたいと望みながらも、そこから離れることができない。小林氏によれば、これが「こころ」のアポリアである。

シンポジウムのフィナーレを飾ったのは坂部恵氏である。「Polyphonic Subject and the Transversality of Genders: Possession, Narrative and Femininity in the Japanese Cultural Tradition」と題された坂部氏の講演は、万葉集から三島由紀夫まで、多彩なテーマを操りながら、能楽が重要な役割を演じる日本の文化、伝統の真髄というよりは「こころ」に触れた。「死者の魂寄せ、憑き」に起源をもつ能楽では、「こころ」と声の転移が生じ、語る主体の二重構造をあらわにする。この主体の二重性は、役者の魂が死者のそれと交流する「離見の見」としてもあらわれる。役者の「心の目」が観客の目そして死者の目として二重に、相対立するベクトルとして外在化される。主体の二重構造はさらに、男性が女役を演じる能楽において、ジェンダーの転移ないし横断性としても顕在化する。このような男が女になるという「たをやめぶり」は日本文化において優勢を保っていたが、18世紀以降、「ますらをぶり」に取って代わられた。しかし、ときとして三島の事例のように、倒錯的な形で表面化する。坂部氏の深くいつくしみのある声は聴衆の「こころ」に沁み入り、日本哲学の種をドイツの大地に播いた。

(付記)
本レポートはあくまでも報告者の独断と偏見にもとづくものであり、講演者や発表者の意見をいかなる形であれ反映していない。なお、「こころ」シンポジウムの論文集が今春日独センターより出版の予定である。あわせて参照いただければ幸いである。

International Symposium of "Kokoro"
November 2 & 3, 2006, Japanisch-Deutsches Zentrum Berlin


山本 久美子