研究発表集会報告 パネル1

パネル1 「音・音響・音楽」
報告 : 長木 誠司

11月19日(日) 10:30-12:30 研究講義棟212教室

パネル1 「音・音響・音楽」

ヴィンチェンツォ・ガリレイのモノディ実験作品とその周辺:ダンテ・ラメント・ジェンダー/岡部宗吉(京都大学大学院)
足音を聴くこと:身体の博物誌のための一試論/恩地元子(東京芸術大学非常勤)

【司会】長木誠司(東京大学)

 本パネルは、2名のみの発表からなる。

 最初の岡部宗吉氏の発表「ヴィンチェンツォ・ガリレイのモノディ実験作品とその周辺:ダンテ・ラメント・ジェンダー」は、フィレンツェのカメラータの中心人物のひとりであったガリレイが自ら作成し、自ら歌って上演したと伝えられている“ウゴリーノ伯の嘆き”に関して、その不評であった上演の意味を、ダンテ(『神曲』「地獄篇」)への付曲であったこの作品のテクスト分析と当時のダンテ受容、語り(歌唱)の主体が男性であったことの評価などから解きほぐしながら、それをガリレイにおけるジェンダー的な視線へと広げてゆく射程を持つものであった。

 “ウゴリーノ伯の嘆き”のように、楽譜の現存せず、さらに言及文献も少ない音楽作品に関してのアプローチとして、歌詞のテクスト分析とその受容、そして同時代の別の作品や作曲家(モンテヴェルディ)との対比によって、外側から囲い込んで追いつめてゆく方法は、古典的ではあるが、唯一の有効なものでもあろう。発表者は、ダンテに対する当時の一般的な低評価を文献的に跡づけており、そこまでは基本的な手法の枠内での着実さを見せたが、本発表の主眼はそこではなく、むしろガリレイの作品における「ラメント」の主体が女性ではなく男性であったことが、不評の大きな原因として焦点づけられたことであろう。それを立証すべく、発表者は、女性による「ラメント」の成功例と不評例をモンテヴェルディの作品に指摘し、さらにモンテヴェルディとガリレイの関係をつぶさに追ってゆく。

 こうした方法論には、そもそも近年のジェンダー論を援用するということ自体への根拠付けが不可欠であるが、発表者はさらに、ガリレイが当時の「女性論争」に関して、非常に大きな関心を寄せていたことを、ガリレイ自身の別の文献から証拠付けており、そこで展開されているジェンダーのメタファーを緻密に読み解いてゆく。それによって、研究手法としての正当性を主張しており、その意味でも遺漏のない発表の組み立てがなされていた。

 古典的文献手法と音楽へのジェンダー論的アプローチ(これ自体は英米圏では新しくないものの、日本の音楽学研究、ジェンダー研究の両者において、いまだに希薄な領域である)の両者を結びつけるところに本発表の意義があったと言えるだろう。音楽におけるジェンダー論に関して、スーザン・マクレアリの理論的枠組みを、やや無批判に踏襲している向きがないわけではなく、方法論的な深化はこれからの課題かも知れないが、幅広い領域で試論が展開されてゆけば、研究そのものの可能性と意義は自ずと増してゆくであろう。その意味で今後の発展につながるところの大きな発表であった。なお、成城大学の津上英輔氏から、女性についてのメタファーのみ(男性へのメタファーなし)の指摘で十分か否か、モノディに関するテクスト解釈の問題、そしてジローラモ・メイとガリレイの理論的相違から予想される異論の可能性について質問がなされた。

 恩地元子氏の発表「足音を聴くこと:身体の博物誌のための一試論」は、従来、音としてすらほとんど文化的な意味づけや解釈が行われず、学的な認知も当然行われてこなかった‘足音’について、表象文化論的なアプローチを施そうとするもので、その意味では野心的な射程を持っている。発表も、実際に持参されたトゥシューズの構造的な説明から、途中でタップダンスを自ら踊るなど、盛りだくさんのエンターテインメント性に富んでいて、新しい対象に対する新しい方法論的対処と言うにふさわしいものであった。

 発表は、1.方法について、2.歩行を聴く、3.歩行からダンスへ、4.足音=生、5.〈あし〉=わたしという5部分構成であったが、足音が学的な対象として認知されるまでの過程を論じた1.に関しての部分が非常に長く続いたため、結果的に2.以下の展開が「足早」に流れすぎたのではないかと思われる。

 議論の方向としては、クラシック・バレエでは禁忌とされる(「雑音」として)足音が、タップ・ダンスによって「発見」され、そこに身体論的な意味づけが見いだされたあと、実例の提示を通してタイポロジーや意味づけへと向かう予定だったのではないかと思われる。「思われる」というのは、実際のところ1.の議論が終わったあと、それでは、というわけで映画からアニメ、マンガ、ダンスの資料映像等々、幅広い領域にわたって蒐集された足音の例がOHPやヴィデオを駆使して、やや総花的に紹介されたからである。ハンドアウトで30以上掲げられていた例は、ひとつひとつ実に興味深そうに思われる反面、それぞれに十分な時間を発表者が割けなかったのが残念である。また、もう少し事例同士の関係を整理しておくことも可能であったろう。これは質疑応答で佐藤良明氏の行った指摘でもあった。タップ・ダンスがミュージカルにおいて「どしん」という音の強調によって足音の生命を取り戻した、という発表者の指摘を挙げて、佐藤氏は対象と視点の興味深さ、そして論となるべき可能性を評価したが、まとまった「足音」論が醸成されるまでには、今少しの理論的枠組みと構築・整理への意志が働かねばならないだろうという指摘もあった。司会者も同意見であるが、いずれにしても端緒に付いたばかりの領域。今後の「長足」の展開を期待したい。

長木 誠司

岡部 宗吉
ヴィンチェンツォ・ガリレイのモノディ実験作品とその周辺:ダンテ・ラメント・ジェンダー

16世紀後半にフィレンツェで活躍した音楽家ヴィンチェンツォ・ガリレイは、著書『古代と現代の音楽に関する対話』(1581)において、古代ギリシア音楽の復興を目指し、後に「モノディ」と呼ばれる独唱歌を提唱したことで知られる。そして、その理念に基づき、ダンテ『神曲』「地獄篇」から"ウゴリーノ伯の嘆き"に作曲し歌ったと伝えられている。しかし、この作品は、楽譜が現存せず、ごくわずかな当時の記録から察するに、好評を博したとは考えがたい。本発表では、ガリレイが選んだテクストに注目し、同時代のダンテ受容との関わりや、続く世代のモンテヴェルディの仕事に照らして、この試みの文化的な背景と意義を考察する。  ダンテを歌詞とする楽曲は当時数少なく、とりわけ"ウゴリーノ伯の嘆き"への作曲はきわめて異例である。ガリレイの作品が成功しなかったであろうことは、詞の凄惨な内容やダンテに与えられていた否定的評価から推察できるが、「嘆き(ラメント)」を歌うのが男性であることも問題含みだったのではないか。実際、ガリレイの著作に時折見られる、ジェンダーによる比喩表現からは、彼が当時の「女性論争」に無関心ではなかったことがうかがえる。ガリレイのモノディ実験作品は、近年フェミニズム音楽学者によって活発に論じられている、音楽劇におけるジェンダーの表現に関するモンテヴェルディの試行錯誤を予告するものでもあったと私は考える。

恩地 元子
足音を聴くこと:身体の博物誌のための一試論

本発表は、文化のリソースとしての身体の可能性について、一般には、顔や手よりも鈍感で表現力に乏しく、ときには貶められさえする<あし>(足/脚)に焦点を当てて論じる研究の一環として、聴覚との関わりを扱うものである。楽譜のような視覚的なコードに定位することが困難な足音は、通常、「そういえば、足音がしていた」という程度に意識されるか、あるいは、マンガなどにおける誇張された擬音の表現によって初めて気づかされるものであるが、それが、どのような局面において、表象として聴かれるようになるのかを、様々な芸術分野を参照しながら分析する。映画、アニメーションなどにおいて歩行は、動作主(人間とは限らない)、あるいはその状態を明示することが多いが、明示し得ないことに意味がある場合もある。実演芸術(タップ・ダンス、フラメンコ、アイリッシュ・ダンス、能、歌舞伎など)において、地面を踏み鳴らす行為を微細に聴き分けてみれば、<あし>のテクノロジーの諸相をかいま見ることができよう。視覚の支配によって覆い隠されていた足音の資源性を明らかにすることは、身体の知としての<あし>の本性に、光を当てることになるだろう。さらには、日常的な歩行において足音を意識させる契機となる建築物に注目することにより、足音を聴くことから可能になる、世界とのもうひとつの関わり方を提案したい。複数の領域から、口頭発表に適した事例を選ぶ予定である。

会場風景

岡部 宗吉