研究発表集会報告 ポイエーシスの現場

ポイエーシスの現場
報告 : 小林 康夫

11月19日(日) 16:30-17:30 午後の部(2) 研究講義棟227教室

『兎歩の舞』における空間、出来事のイマージュ化について/相内啓司(京都精華大学)

表現の現場としての演劇的空間は物理的な要素によって構成される空間と出来事によって成立するが、鑑賞者の経験領域ではたんに物理的な事象としての空間がそこにあり、時間が経過しているのではないということが想像される。演劇的な空間においてはさまざまな構成要素がそれぞれの固有の機能を伴いながら次々に引き起こされる出来事によって時間化され延長される。引き起こされる出来事によって時間化された構成要素は日常の中での透明な存在(機能的存在)であることを止めて、しだいに不透明なオブジェ(機能から切断されたもの/現象)として視覚的にも心理的にも映り始めるのではないだろうか。演劇的な空間はオブジェとしての不透明で露な存在と出来事が重なり合う様相を紡ぎだすことによって、そのような光景をまさにイマージュが生成し戯れる場として組織するといえないだろうか。
ここでは2006年7月22日に川口・アート・ファクトリー(KAF・キューポラ)で行われた〈水蛭子〉プロジェクトによる公演『兎歩の舞い』をとりあげ、物理的な時空間がどのようにイマージュ化された生成の場として組織化されようとしたのかを表現の現場から報告したい。
このプロジェクトは音楽(声明、ホーメイ)、音響(デジタル、アナログ)、テクスト(古事記、仏教教典)、舞踊(白拍子、インプロビゼーション)、インスタレーション、オブジェ、映像の複合的な要素からなり、4人のアーティストによるコラボレーションである。
『兎歩の舞い』では起源としての芸術、存在の根源に想いを馳せることがテーマ化されているが、そこには古典的なテクストである、古事記、仏教、民族音楽、白拍子と現在性を持った諸要素、映像メディア、実験映画、記録映像、インタラクティブな映像―音響生成システム、現代美術、身体性が交錯し、ときにそれらが前景化、背景化、合成、混在化する。非常に狭い空間でありながら、悠久・無限に時間化されたイマージュとしての光景が繰り広げられたような気がするのだが...。
*ユニット〈水蛭子〉はこのプロジェクトのために組織された:桜井真樹子(声明、ホーメイ、白拍子、演出)、相内啓司(映像、インスタレーション、演出)、緒方香織(映像)+小川聡一郎(音響)

研究発表の枠のなかにアーティストあるいは、文化キュレーターなどの人々の「現場」の報告があってもよいのではないか。表象文化論学会の存在理由のひとつは、研究の場と制作の場との交通に求められるべきではないか――このような理由から企画委員会では、一般の研究発表の時間枠には収まりきれない「現場からの発表」のための場を特別に設けることを考えていた。今回の研究発表の応募のなかでは相内啓司さんの「『兔歩の舞い』における空間、出来事のイマージュ化について」がそのような試みの最初の事例として適当であった。

『兔歩の舞い』は相内さんを中心としてパフォーマー、音響アーティスト、映像アーティストなどからなるグループ「ユニット〈水蛭子〉」による舞台コラボレーションで2006年の7月と10月に舞台公演されたものである。はじめに相内さんによる、古事記を典拠とする作品の概要について詳細な説明があり、さらにパフォーマーの桜井真樹子さんによる声明とカルグラ、スグットの短い実演があったあと、公演のヴィデオ記録を、時間の関係で、途中、省略をはさみながら鑑賞した。学会の研究発表という枠のなかで行われた関係で、作品の解説部分に時間がとられ、映像を見る時間が少なくなった。また、質疑に割く時間も多くはとれなかった。その限りでは、このような形での研究作品発表にはいろいろと難しい問題があることが実感された。作者としては、作品のすべてを説明したいという欲求はあるだろうと推測するが、学会という場にふさわしく、そのなかで問題化するフィールドを明確にしておくべきだったのではないか、とも思われた。たとえば、この作品では、古事記という神話の作品化、あるいは声明などの声の機能、白拍子という主題系、音響と映像の相互関係、前ロゴス的感性活動など、いくつもの興味深いテーマが見受けられたが、そのどれも学会の場で深められる余裕はなかったのが残念である。今後は、ひとつの問題系をクローズアップすることが必要であると思われる。

しかし、わずかな時間の実演のために、わざわざ会場にまで脚を運ばれた、パフォーマーの桜井さんには御礼を申し上げたい。短時間であれ、その声の多様な深さは会場の一同に感動を与えたと思われる。彼女の声によって、表象文化論学会の第一回研究発表集会は言祝がれたと言うべきであろう。

小林 康夫