第4回大会報告 | シンポジウム「免疫・多孔・液晶──表象文化論のアクチュアリティ」 |
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シンポジウム「免疫・多孔・液晶──表象文化論のアクチュアリティ」
報告:REPRE編集部
7月4日(土) 13:30-14:30 京都造形芸術大学 瓜生山キャンパス 春秋座
シンポジウム「免疫・多孔・液晶──表象文化論のアクチュアリティ」
【パネリスト】
問題提起:松浦寿輝(東京大学)
応答の試み1:岡田温司(京都大学)
応答の試み2:田中純(東京大学)
【コメンテイター】
前川修(神戸大学)
【司会】
小林康夫(東京大学)
表象文化論学会第4回大会は、場所を過去3回の東京大学駒場キャンパスから京都造形芸術大学に移し、7月4日(土)・5日(日)の2日間にわたって開催された。春秋座の舞台を使ったシンポジウムは、そのオープニングである。
シンポジウムに先立ち、本学会理事で京都造形芸術大学舞台芸術センター長の渡邊守章氏からホストとして挨拶があった。そのなかで、表象文化論は現場と研究のダイナミックなからみを「国是」としつつ、しかしそれは容易なことではないという内容のことが語られたが、じつはこれが(たぶんはからずも)、免疫/多孔/液晶に共通した「異質なものの相互浸透」という主題に置き換えられることによって、シンポジウム全体のひそかな通奏低音を導いていくことになるという仕掛けでもあったといえる。
まず、司会の小林康夫氏から、全体の枠組みをあたえるためのパースペクティヴが示された。いま、表象文化論でどのようなパラダイムチェンジが可能か。表象文化論のアクチュアリティの1つが現場の実践にあるのだとして、もうひとつの側面、すなわち理論的な新しいパラダイムの提出はいかにして可能か、というのがその主旨である。
シンポジウムの本編は、学会長の松浦寿輝氏による「問題提起」からはじまった。松浦氏によれば、人文学の使命とは、文化の記憶の厚みを文節化/秩序化し、そこから文化の現在を逆照射することにある。しかし、冷戦終結からこのかた、液状化が急速に進行し、「危機」が日常化する状況のなかで、「思考のフロンティア」をどう拡張するべきか、いかにして思考のテンションをキープするべきか。とりわけ外/内をどう定義するか、境界の根拠はどこにあるのか、と松浦氏は問いを投げかける。
これを引き受ける「応答の試み」として、まず岡田温司氏は「免疫」の概念を提示した。ごく近い過去に関西を席巻した新型インフルエンザとその脅威に触れながら(さらには表象文化論学会そのものをウィルスになぞらえながら)、岡田氏は、エイズと9.11以降、自己免疫化の要請が過剰に肥大化した現状を指摘し、イタリアの思想家ロベルト・エスポジトの考察を参照しつつ、「イムニタス」(免疫)の時代にいかに「コムニタス」(他者への義務や負担――ムヌス――を共にする場)思考するかという問いへそれをつなげていく。
つづいて田中純氏は、ベンヤミンのいう「多孔性」をキーワードとして、学問の寿命/生命についての考察を披瀝した。田中氏によれば、多孔性とは、対立する要素の相互浸透といいかえることができる。たとえばベンヤミンがナポリという都市に見出した建造と崩壊。あるいは福岡伸一氏のいう生命の「動的平衡」など。ここから田中氏は、こうした「アナロジー」によってはじめて発見される想像力と知の論理にあらためて注目し、それを「波打ち際の知」と名づける。こうして田中氏は、たえずみずからに孔をうがつことでその生命を維持していく新たな「知の生態系」の(破壊的)創造を構想する。
これら2つの「応答の試み」に対して、コメンテイターの前川修氏は、液晶パネルに表示される複数のフレームの並列について言及する。精神科医の斎藤環氏による議論を参考にしながら前川氏は、もはやリアリティは表象と現実という図式によってとらえられるのではなく、複数のフレームの切り替えによる小さなリアリティとして実感されるにすぎないと述べ、写真の現場でも同じような事態が生じているという。
そうしたなかで、免疫や多孔性の概念の有効性はどこにあるのか、という前川氏からの質問を受けるかたちで、司会やパネリストからいくつか補足的な発言があったのち、最後に松浦氏が、書物の時代の終焉――グーグルの「図書館コピー」によって人間が裸のまま情報空間にさらされるようになった状況――を、多孔性の科学の条件としてとらえるべきか、それとも学問のフラット化という危機として理解するべきなのかというさらなる問題を提起することによって、シンポジウムの全体を総括した。
REPRE編集部
渡邊守章
松浦寿輝
岡田温司
田中純
前川修
小林康夫