第4回大会報告 | 研究発表パネル |
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7月5日(日)京都造形芸術大学 瓜生山キャンパス 人間館4階NA402教室
研究発表5:ドゥルーズの逆説的保守主義
物質に付け加わる主体性——ジル・ドゥルーズにおける思考の受動性の問題
國分功一郎(高崎経済大学)
『時間イメージ』における反ベルクソン主義
佐藤嘉幸(筑波大学)
暗号と縮約——ドゥルーズ、アブラハム+トローク、デリダ
千葉雅也(日本学術振興会)
【コメンテイター】小泉義之(立命館大学)
【司会】佐藤嘉幸
「革命的になること」「生成変化」等々のタームで織りなされているジル・ドゥルーズの思想は、「世界の変革」を望む人たちに最も広く受容されている思想の一つである。だが、実際に彼の書物をひもとくならば、変革の哲学者というイメージをそのまま再確認することはできない。そこに見いだされるのは、「変わる」ことを前面に打ち出すヘラクレイトス的な流転の思想でこそあれ、現在のドゥルーズの読者の多くが好むような革命的な介入の思想(「変える」)ではないからだ。ドゥルーズの思想のこのような側面を「逆説的保守性」と名付けて導きの糸とし、三人の発表者がそれぞれの切り口からこれを論じるというのが、本パネルの試みであった。
80名ほどの方が参加してくださり、会場は配付資料が足りなくなるほどの大盛況であった。このような地味な企画に、多くの方が関心を寄せてくださったことは、主催者として大変うれしいことであった。
國分は、ドゥルーズにおける思考の受動性というテーマから議論を始め、彼の晩年の映画論『シネマ2』が追究した主体性のテーマを論じた。思考が受動的なものでしかありえないとするなら、ドゥルーズは人に傍観者たることを推奨しているともとれるだろう。だが、ドゥルーズは同時に、見るという行為がもたらす奇妙な主体性(「物質に付け加わる主体性」)を念頭に置きつつ、「見ることを学ぶ」必要性、一種の教育学について考えていた。ドゥルーズの思想には傍観者的な性質があるのではなく、それは積極的に傍観者たることを求めているというのが、國分の結論であった。
佐藤は、國分と同じく『シネマ2』を議論の中心に据えつつも、結晶イメージという全く別の観点からこれを扱った。ガタリとともに『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』を書き、資本主義的力能の転倒という動的生成の論理を追究したドゥルーズは、この書の中で、ベルクソン的な「潜在的なものの存在論」の探求に移行する。これは一見すると、動的生成から静的生成への後退に思えるかもしれない。だがドゥルーズは、結晶イメージを論じるにあたって、ベルクソン的な問題構成に閉じこもるのではなく、それにヒビを入れるものに周到にも注意を促していた。佐藤は、「結晶イメージに逃走線を引く」というスローガンでこれを定式化し、それを「来るべき民衆」というもう一つのテーマに結びつけることで論を閉じた。
千葉は、ドゥルーズがルイス・ウルフソン『分裂病者と諸言語』によせた序文(更には『批評と臨床』に再録されたその改稿版)というほとんど論じられたことのないテクストを取り上げた。ドゥルーズにとって分裂病を創造性へと転換しえた事例とは何よりもまずアントナン・アルトーである。対し、ウルフソンの本には、文学の萌芽はあるけれども、アルトーの水準には達していないというのがドゥルーズの評価だ。言語を突き抜けるアルトーの英雄性と、「正常」と「異常」の間の半端なところに留まり続けるウルフソンの凡庸さ。しかし、この半端さを、境界線に留まり続ける力として解釈することはできないか。このような問題提起をもとに、千葉は、アブラハム+トロック、デリダ、更にはベンヤミンまで縦横無尽に論を展開して見せた。
コメンテーターの小泉氏からは、まず、ドゥルーズの保守性というのは間違いのないことであって、保守どころか、反動の一言を付け加えてもよいような保守であるという力強いコメントが寄せられた。それぞれの発表に対しても興味深いコメントをいただいたのだが、ドゥルーズの保守性という問題から小泉氏が引き出した何よりも興味深い論点は、信仰と宗教である。それこそ他ならぬ『シネマ』の中でドゥルーズは、「映画にはカトリック的なところがある」と言っていなかったか。「この世界を信じること」と言っていなかったか。「ドゥルーズの逆説的保守性」というテーマを掲げつつも、この問題系に踏み込まない我々に対し、小泉氏は、いつものように戦略的に扇動的な言葉使いでもって、「君たちには信仰心がたりない」と喝破してみせた。ドゥルーズと宗教、ドゥルーズと信仰。大変重要な課題をいただいたように思う。
保守性あるいは保守主義という言葉そのものについて、会場から質問がよせられた。今回のパネルが、「ドゥルーズの逆説的保守主義」というほとんどひらめきのような言葉に導かれてのものであっため、十分に答えることはできなかったが、今後も追究し続けるべきテーマであることだけは間違いなく確認できたと思う。
國分 功一郎
佐藤 嘉幸
千葉 雅也
小泉 義之
國分功一郎(高崎経済大学)
発表概要
物質に付け加わる主体性——ジル・ドゥルーズにおける思考の受動性の問題
國分功一郎
思考について、ドゥルーズは一貫してその受動性を主張し続けた。人は考えるのではなく、考えさせられる。世界には思考を強いる何かがあり、その暴力を受ける限りにおいて人は思考する。したがって、能動的に行為する主体、そのような主体による世界への介入といった考えほどドゥルーズの思想から遠いものはない。『差異と反復』(一九六八年)が、徹底して、「意志的なもの」を貶め、「非意志的なもの」を称えるところに、それははっきりと現れている。
このような考え方がもつ政治的意味は深刻である。ドゥルーズは、我々に傍観者たることを推奨しているようにも読めるからだ(世界は変わるが、変えられない)。また、そこに賭けられているものの深刻さに比べて、この考えはあまりに単純だとも言わねばならない(人はただ考えさせられる)。ドゥルーズ的政治など存在しないという否定的な評価が一定の説得力をもってしまうのも故無きことではない。だが、ドゥルーズは後に、この問題を別の観点から再検討したように思われる。『シネマ2』(一九八五年)の「再認」を論じた箇所は、思考の受動性の再定式化として読むことができ、しかもそこにはより複雑な図式が見いだせるからである。また、興味深いことにドゥルーズはそこで、主体性の再定義を試みている。
ドゥルーズにおける思考の受動性の問題の展開を整理しながら、主体性についての新しい思想の糸口を掴むこと、これが本発表の目標である。
『時間イメージ』における反ベルクソン主義
佐藤嘉幸
ガタリと共に『アンチ・エディプス』、『千のプラトー』を書き、資本主義的力能の転倒という動的生成の論理を探求したドゥルーズは、その後『シネマ』、とりわけその第二巻である『時間イメージ』において、ベルクソン的な「潜在的なものの存在論」(バディウ=ジジェク)の探求に移行することになる。しかし、ドゥルーズ哲学のこのような転回を、単にベルクソンへの回帰、あるいは動的生成から静的生成への後退と解釈すべきなのだろうか。また、このような転回を、ドゥルーズの「保守性」と断ずるべきなのだろうか。私たちはむしろ、『時間イメージ』の中に、ベルクソン的な「潜在的なものの存在論」に対立する反ベルクソン的な契機を見出したい。過去へと移行する現在、純粋回想/回想イメージといったベルクソン的時間論は、「結晶イメージ」という完璧な美を持つ時間イメージを生み出すのだが、私たちはその完璧な「結晶イメージ」に「ひび」を入れるもの、さらには「来るべき民衆」という概念の側に、ドゥルーズ哲学の可能性を探求する。そのような可能性は、むしろ私たちの経験、あるいは政治的経験の限界を突き崩すようなものに存するはずである。
暗号と縮約——ドゥルーズ、アブラハム+トローク、デリダ
千葉雅也
ドゥルーズにとって、分裂病(統合失調症)から創造性を引き出しえたケースと言えば、アルトーの文学であった。アルトーは、その病によって破砕された経験のフラグメントを「器官なき身体」という「流体的」な身体性のうちに綜合することで、ミニマムな「健康」を得ようとした。しかしドゥルーズの分裂病論には、注目すべき人物がほかにもいる。『分裂病者と諸言語』(1970年)を書いたルイス・ウルフソンである。彼は、母国語である英語の文を聴くやいなや、その要素を複数の外国語によって翻訳しようとする。ドゥルーズは、『分裂病者と諸言語』への「序文」、およびその改稿版──『批評と臨床』(1993年)第二章──において、この症状に文学性の萌芽を見出しているが、それはアルトーほどの「水準」には達していないと評される。ウルフソンの営為は、充分な創造性に達する途上の器官なき身体に関わる。それは、複数の他者性を表現する諸言語によって「暗号化」(crypter)された中間=環境のなかで自らの個体性を「縮約」(contracter)する身体である。本発表では、そうした身体のあり方を、フロイトの症例「狼男」に隠された多言語の「埋葬語法」(cryptonymie)について分析したニコラ・アブラハムとマリア・トロークの論──『狼男の言語標本』(1976年)、およびデリダによる序文「Fors」──を参照しつつ、明確化する。