第4回大会報告 | 研究発表パネル |
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7月5日(日)京都造形芸術大学 瓜生山キャンパス 人間館4階NA402教室
研究発表1:怪物・悪・偶然——侵犯される自己性
『社会契約論』の中の「良心」
飯田賢穂(東京大学)
顔貌と怪物性——新古典主義建築における装飾と「性格(カラクテール)」の問題系
小澤京子(東京大学)
バタイユの「人間」——『無神学大全』における「悪」の概念を通じて
大池惣太郎(東京大学)
【コメンテーター】大橋完太郎(玉川大学)
【司会】三河隆之(東京大学)
三河隆之氏の司会による「怪物・悪・偶然──侵犯される自己性」と題した研究発表1では3氏の発表が続いた。いずれもガン細胞のように自己を突き崩す契機を孕みながら、それゆえに(あるいはその前提に)自己なる存在を浮上させる作用をもつテーマである。
社会思想史を専攻する飯田賢穂氏はルソー「『社会契約論』の中の「良心」」と「悪」との対立関係の検証から、「市民宗教について」という章の文言「社会性の感情sentiment de sociabilité」の解釈に挑んだ。自然法を了解する実践的・理性的判断という従前の「良心」の位置づけに対し、ルソーは「情念」と闘いうるもう一つの「衝動」、「感情」の内にこれを位置づけた(善への愛:ドラテの指摘)。氏はこの闘いに単なる「善良」を超えた「有徳」ないし善悪の成立要件を認め、「良心」は「自分自身との対立」を告げるものであるという。ルソーが「自分自身とその同類とへの二重の[対立]関係」にある人間を「社会的」と呼んだ点から、氏は「良心」を社会的sociable感情だと主張した。ルソーが「義務を愛さしめる」市民宗教を説明した文言「社会性(として)の感情」こそ「良心」だとする氏の解釈は、同書を倫理的な問題系に接続する。
美術・建築史の小澤京子氏は「顔貌と怪物性:新古典主義建築における装飾と「性格(カラクテール)」の問題系」と題し、建物外観の規範概念「性格caractère」と、諸要素・様式の悪しき結合に対する当時の軽蔑語「怪物/畸形的monstreux」とを扱った。軸となったのは18世紀末の建築家ルドゥーだが、氏は内部が表層に兆候として表現される「性格」と、その規範を逸脱したある種の過剰としての「怪物」とを対置し、まず17世紀からの概念の系譜を詩学、小説、観相学、自然史などを通じて辿った。そこには一瞬の情念を切片として固定することと、その表れを単純化・類型化することの二重の作用がある。ルドゥーも情念や感覚に結びついた「性格」が、装飾を通じ顔貌/正面に表れるとした。しかし饒舌、あるいは沈黙ゆえに解読困難とされた彼の設計や実作に関し、顔貌の統一性が崩され、種固有の特徴から乖離したことへの評価こそ「怪物」だったと氏は分析した。
フランス思想専攻の大池惣太郎氏「バタイユの「人間」:『無神学大全』における「悪」の概念を通じて」は、当概念の再検討にむけ『ニーチェについて』を再解読した。自他どちらを利する行為かをめぐる通常の功利的な善悪観に対し、バタイユは自他という個別性を超えた力の奔騰、「道徳の頂点」こそ功利性の純粋否定=「悪」とした。この「悪」が存在間の「交流communication」を保証する(イエス処刑による神と人間の交流)ものの、「交流」の目的化は「道徳の頂点」の隷属化であり、これを免れるために信仰を含む人間意志や、意味性の空間を超えた「偶然」が導入されたという。人間が意志的に欲しない善悪は可能かというサルトルの問いは、バタイユのいう「人間の限界」を照射するが、彼はその問いを宙吊りにすることが「偶然」の賭金だとした。氏はこの宙吊りによる力動的な闘争状態を、バタイユのいう人間性の自己言及的構造(非人間的なるものとの闘争)の本質と捉えた。
コメンテータの大橋完太郎氏は自我論的、あるいは唯物論的に近代と対峙するものとして上記発表テーマを総括し、多角的なコメントや質問を呈示した。まず飯田・小澤発表の対象に見る共通点として、「自己」以前に情念を注視していたことを指摘した。その上で第一の中心的な議論として中間的な共同体の可能性が取りあげられた。たとえばparticularなレヴェルとしての建築の施主や個人、また一般的なcharacterを当てはめられる国民=国家の中間に、もう一つのキータームとして取りあげられるべき鋳型としてのtypeで分類される集団、類が構想される。あるいは良心の発生における「同類」、あるいは社会的感情の内にableという語根が潜むとおり、罪を犯す可能性のある「私」を修正するフィードバック過程のうちに人間の可能性を保証される。次に第二の中心的な議論は「良心」や〈善/悪〉に功利性が含まれていることの指摘だった。飯田氏にはルソーの「良心」に他人を助ける方が自分を助けるより得だという判断が介在する可能性、大池氏にはバタイユの功利性の否定という態度に対しいわば後付けの功利性がありうるのではという指摘がなされた。飯田氏からは反省というよりも、当座の行為に「待った」と思い自分が考える契機としてルソーの「良心」を考えている旨が、大池氏からは行為遂行を目的とする理由の空間ではなく、理由のないことに人間の意義をバタイユが見いだしていた旨が回答された。併せてルソーが「救済」よりも一般意志への畏怖、疚しさとして宗教を考えている点も言及された。
飯田 賢穂
小澤 京子
大池 惣太郎
大橋 完太郎
三河 隆之
天内大樹
発表概要
『社会契約論』の中の「良心」
飯田賢穂
近代政治理論書の一つの終点であるジャン‐ジャック・ルソー(1712-1776)の『社会契約論』(1762)には、「市民宗教について」と題されたポレミックな章がある。同章は、宗教の世俗化、特に愛国心のはじめての理論化としばしば見なされる。
本発表では、このような解釈を認めつつも、一先ずわきに置き、「良心(conscience)」という言葉をめぐって展開するルソーの独特な議論の枠内で同章を解釈する。この方法から、約束/契約(engagement)を破り得るという自分自身の悪の可能性に読者を向き合わせる同章の一機能が明らかになる。
具体的には、本発表は、同章で使われている「社会性の感情(sentiment de sociabilité)」という言葉を「良心」と解することから論をはじめる。次いで、「自分自身との対立(contradiction avec lui-même)」を個人の中で生じさせることという、ルソーの「良心」の重要な働きを、『エミール』(1762)等の諸著作の中からつかみとる。同時にこの作業から、ルソーが、悪の問題を「自分自身との対立」という視点から論じようとしていたことを明らかにする。最後に、以上の議論をまとめるかたちで、ルソーが、「市民宗教について」の章で、自分自身の悪の可能性に読者を向き合わせようとしたことを明らかにする。
以上の内容をもって、本発表が、ルソー研究に内在的に貢献するとともに、ルソーの思想をより広い研究領域へと展開させるヒントを提供できればと考えている。
顔貌と怪物性——新古典主義建築における装飾と「性格(カラクテール)」の問題系
小澤京子
新古典主義時代の建築家たちは、建築装飾における異質な様式の不調和な結合を、「怪物的(monstreux)」という形容を用いて糾弾した。この語彙は、当時の自然誌における怪物/畸形(monstre)概念とも通底している。つまり、正常で標準的なものからの単なる逸脱ではなく、諸要素の、「悪しき」結合によって出来するキマイラ的存在のことである。
当時の建築理論においては、「性格(caractère)」なる概念が規範と見なされていた。すなわち、「建築物の外観は、その内部構造や機能、用途、社会的性格を正しく表さねばならない」という当為である。この「性格」概念は当時、幅広い射程を有していた。例えば、身分制秩序内における人物描写、情念の外部表出の類型化、観相学、さらには外観の徴表に基づく自然史上の分類といった諸分野において、「性格」なる概念が援用されている。ここではいずれも、外部や表層における内的なものの発現態様、あるいは外観から不可視の内部を読み取る作法が問われている。
建築における「怪物」は、表層や外観――いわば建築の顔貌(physionomie)――を支配する規範を踏み越えた「過剰さ」から出来する。本発表は、新古典主義時代フランスの建築における形態と言説の分析から、建築の「顔貌」を統べる準則とそこからの離脱との間に存するダイナミクスを捉えたい。建築を一個の主体に準えるならば、自己の同一性や統一性から逸脱する部分にもまた、時代の特性が(歪曲された形で)反映されていると考えるからである。
バタイユの「人間」——『無神学大全』における「悪」の概念を通じて
大池惣太郎
ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の思想において、「悪」(mal)と「人間」の概念は分かち難く結びついている。ニーチェへのオマージュとして書かれた『ニーチェについて』(1945)の中で、バタイユは「悪」を道徳的な視点の外から再解釈し、自閉し活力を失った存在が他者との交流へと巻き込まれるための必要不可欠な契機であると論じている。しかし同時に、「悪」を主体的に意欲し行為することは「人間」にとって不可能であり、「悪」は「人間」の権能を越えた偶然としてしか可能ではないという見解も同書には示されている。
本発表では、バタイユのこうした特異な議論を扱いながら、「悪」との関係から導き出される「人間」の概念に注目する。前述のテクストの元となった1944年の「罪についての討論会」において、バタイユはキリスト教内部の言説(ダニエルー神父)と外部の言説(サルトル)の双方から批判を受けている。批判は主に、キリスト教の用語を濫用し、「悪」を道徳的緊張の絶頂としながら、他方で超‐道徳的な瞬間としても提示するバタイユの曖昧さに対して向けられている。しかし、この曖昧さにこそ、「人間」をその限界において思考しようとするバタイユの特徴的思考があらわれているのではないか。
こうした問いを通じて、バタイユの思想から「人間」の概念を再考する一つの手がかりを引き出したい。