新刊紹介 |
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杉橋陽一ほか(訳)
テオドール・W・アドルノ『アドルノ 文学ノート』
みすず書房、2009年07月
1969年にアドルノが逝去してから40年が経過した今日、遺された膨大な数量のテクストのなかで、主要なものはおおかた邦訳されたといってよい。しかしながら、哲学や音楽論、社会学、文化論、芸術美学など、まさにプリズムのように多面的なアドルノの著作にあって、文学批評にまつわる仕事は、文学論の主著である『文学ノート』全4巻の邦訳が1978年に刊行された抄訳版のみしか存在せず、それも絶版になって久しいということもあり、日本の読者には必ずしも十分に知られていなかった。そのため、アドルノの文学観について、カフカやベケットのような秘教的なモダニズム文学の擁護者という点のみがいたずらに強調されてきたように思う。
それゆえ、このたび『文学ノート』の完訳が全2巻の単行本としてようやく刊行されたことは、日本のアドルノ受容史における決定的な間隙を埋めるという点で大きな意味をもつ。そればかりでなく、『文学ノート』のページを繰っていく読者は、エリート主義的なモダニストというイメージにはおさまらない、文学作品の繊細な読み手にして、怜悧さと洒脱さとをあわせもつ卓越した文芸批評家としてのアドルノの姿を知ることができるだろう。第1巻には、アドルノの思想と文体の綱領文とも呼ぶべき「形式としてのエッセー」や、ベケット論の古典「『勝負の終わり』を理解する試み」などの重要テクストが多数収録されているが、それに劣らず興味深いのが、アイヒェンドルフやハイネ、バルザックといった――一見したところアドルノとはあまり縁がないようにも思われる――19世紀の小説家についての卓越したエッセーの数々である。それらはまさに、「エッセーの眼光は、精神的な形成物をことごとく力の場に変える」「幸福と遊びがエッセーにとっては本質である」「(「形式としてのエッセー」)といった箴言のこのうえない実例をなしているといえるだろう。ヘルダーリンやゲオルゲ、クラカウアーについての論考が収められた第2巻とあわせて、熟読玩味されるべき「エッセー」集である。(竹峰義和)