新刊紹介 |
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石田英敬(監修) 西兼志(訳)
ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過失』
法政大学出版局、2009年
デジタル・テクノロジー、バイオ・テクノロジーに代表されるハイパー産業時代の科学技術は、私たちの精神を行為遂行的に構成する「精神のテクノロジー」と化している。技術は人間の目的に従う手段、あるいは制御可能な対象ではなくなっている。だが、ベルナール・スティグレールは文化産業や情報産業の頽廃を嘆き、糾弾することに安住しない。そもそも、人間と技術、内部と外部を二項対立に置く形而上学的な態度とは無縁なのだ。
スティグレールは本書で、哲学が起源において技術(テクネー)と知(エピステーメ)を分離し、「技術」を非思考の対象としてきた、と指摘するところから歩みを進める。技術と哲学をめぐる根源的かつ壮大な読み直しがはかられていくのだ。
プラトンまで遡行し、ルロワ=グーランの先史学(ヒトの起源でありヒトを定立させる「前定立」としての技術)を経由したうえで、ベルトラン・ジルやジルベール・シモンドンの技術史、技術哲学が言及され、近代の科学技術が自律したシステムを形成していく様が辿られる。
そして、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』を批判的に継承・転回すべく、人間と技術との関係が、ジャック・デリダの「差延」や「代補」を手がかりにして捉え返されていく。それは、一方が他方において自らを発明する(遅れとともに差異を生み出す)運動としてある。現存在の有限性を超えて継承する「時間」が、「後成系統発生」的な記憶として人間–技術を構成していく。「時間」を契機とするスティグレールの文明批判の射程は、たとえば技術システム決定論や空間決定論に陥りがちな、昨今の「アーキテクチャ」論を相対化するうえでも大きな刺激となるに違いない。 (南後由和)
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