第3回研究発表集会報告 研究発表5

11月15日(土) 16:30-18:00 18号館4階コラボレーションルーム3

研究発表5:写真と弔いの形式——近代日本における遺影と国葬写真

遺影——近代日本の葬送文化と肖像写真
浜野志保(首都大学東京)

近代儀礼表象の絵巻から写真への変化とその受容
研谷紀夫(東京大学)

【司会】日高優(群馬県立女子大学)


本セッション「写真と弔いの形式:近代日本における遺影と国葬写真」では、日高優氏の司会のもと、近代日本の「写真と弔い」を主題とする2名の発表が行われた。

浜野志保氏の「遺影——近代日本の葬送文化と肖像写真」は、遺影という近代日本特有の弔いの形式をさまざまな角度から浮き彫りにする発表だった。われわれが普段葬儀などで目にする遺影は、言うまでもなく19世紀の写真の発明によって誕生したものである。しかし少なくとも西洋において、生前のイメージである「遺影」を葬儀の中心に据える習慣は決して一般的なものであるとは言えない。葬儀の中心的なイメージとしての遺影は、明治以降の火葬の普及、葬列の廃止にともなう祭壇と出棺の重要性の増大といった変化と分かちがたく結びついている。さらに浜野氏は、19世紀の日本において隆盛を極めた「死絵」や、西洋における死後写真、心霊写真などとの比較を通じて、死後も受け継がれる「生前のイメージ」としての遺影の固有性を示してみせた。

研谷紀夫氏の「近代儀礼表象の絵巻から写真への変化とその受容」は、表題のとおり、近代日本の国葬表象における絵巻から写真、そして写真帳への変化を分析したものである。とりわけ研谷氏はこれらを「レイアウトデザイン」の観点から精緻に分析し、従来のように写真の「内容」のみを対象とする研究とは異なる視点を提示してみせた。これによって、「対比」「全体構成」「方向」といったイメージオブジェクトの構成と、それによって生じる効果とが具体的な事例に即しつつ説得的な仕方で示された。とりわけ、レイアウト技術を駆使した写真帳というメディアが、絵巻や単独の写真では不可能であった網羅的かつ効果的な儀礼表象を可能にした、という点を指摘することによって発表は締めくくられた。

いずれの発表も、「近代日本」「写真」「弔い」という重要な主題に正面から取り組んだものであり、質疑の場においても活発な意見交換がなされた。浜野氏の発表については、近年の葬儀における「遺影」の微妙な変化についての質問、研谷氏の発表については、国葬写真帳におけるキャプションの有無についての質問がなされるなど、具体的な事実関係に対する問いが多く提起されたのが印象的だった。このことは、いまだ萌芽期にある近代日本の「喪と写真」という主題についての研究が、聴衆にとっての大きな関心事のひとつであるということの証左であったと言えるだろう。

浜野 志保

研谷 紀夫

日高 優


星野太(東京大学)


発表概要

遺影——近代日本の葬送文化と肖像写真
浜野志保

死後写真(post-mortem photography)や心霊写真(spirit photography)など、写真が普及した後の西洋において、肖像写真は、しばしば死者を追悼する手段として用いられてきた。今日の日本で行われる葬儀においても、故人の肖像写真である遺影が用いられないことは稀である。遺影の大半は、生前に撮影された近影の中から近親者によって選別された後、葬儀中は祭壇に飾られ、火葬場へと向かう弔いの列に随行する。葬儀が終わった後は、家へと持ち帰られ、仏壇や仏間に飾られることも多い。写真術が発明され日本に伝来した時期を鑑みれば、こうした遺影の習慣は、それほど古いものではない。しかし、江戸時代の役者絵の一種である死絵には、たとえば三代目尾上菊五郎死絵(嘉永2/1849)、八代目市川団十郎死絵(嘉永7/1854)、五代目市川海老蔵死絵(安政6/1859)のように、生前の姿を描いた肖像画が追悼の手段として画中に示されているものがあり、これが遺影の原型であると考えられる。また、葬儀において遺影が使われはじめた時期は、火葬の普及や生活空間の変化に伴い、葬儀の様式が、棺を墓地へと運ぶ葬列を中心とするものから、祭壇前での式典を中心とするものへと移行していった時期と重なる。本発表では、近代日本の葬送文化における遺影の普及過程を検証し、写真によって死者を表象することの意義を探る。

近代儀礼表象の絵巻から写真への変化とその受容
研谷紀夫

発表者は、近代期の国葬とそのメディア表象についての研究を行っており、昨年の研究集会においては、伊藤博文の国葬を題材に発表を行った。これらに対して本発表はさらに時代を遡り、明治16年に行われた岩倉具視と明治24年に行われた三条実美の国葬とそのメディアとその表象に焦点をあてる。

前者の岩倉の葬儀においては明治天皇の命令によって、大和絵絵師の田中有美によってその模様が絵巻ものによって描かれた。明治16 年当時は写真師の数や撮影技術も十分でなく、その儀礼の模様も近世まで続いていた「葬儀絵巻」の様式に則り作成された。現在この絵巻は完成品が国立国会図書館にまたその下絵が岩倉家に保管されている。

一方でその八年後の三条実美の葬儀では、写真館や乾板印刷による写真技術も著しく発達し、その模様は丸木利陽、江崎礼二など主要な写真師三名によって撮影され、葬儀の模様を撮影した写真は現在国立公文書館に保存されている。

本発表では、出自も同じ公家であり、明治新政府においては共に高位にあった二人の追悼儀礼を描いた絵巻と写真を比較し、両者の焦点の当て方や描かれ方の違いなど、表象の違いを比較する。そのことによって、これまで絵巻によって描かれてきた儀礼が近代期に写真が導入されることによって、どのようにその表象と受容のされ方がどのように変化したかを、明治十年代と二十年代の境界にターゲットをあて、即位の礼や大葬儀などその他の儀式なども踏まえて検証する。