第3回研究発表集会報告 研究発表2

11月15日(土) 14:00-16:00 18号館4階コラボレーションルーム1

研究発表2:映画/演劇の形式と観客

投影の揺らぎ、あるいは多重化するスクリーン内スクリーン
石橋今日美(東京工科大学) 

おネエと女とフリークス——『お気に召すまま』と『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』
北村紗衣(東京大学)

喪失と憂愁——グリフィス的サスペンス
三浦哲哉(日本学術振興会特別研究員)
 
【司会】犬伏雅一(大阪芸術大学)


本セッションの発表者は以下の通りである。

石橋今日美(東京工業大学):投影の揺らぎ、あるいは多重化するスクリーン内スクリーン

北村紗衣(東京大学大学院):おネエと女とフリークス―『お気に召すまま』と『ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ』

三浦哲哉(日本学術振興会):喪失と憂愁:グリフィス的サスペンス

発表者の発表内容とフローの反応を報告する。

石橋今日美(東京工業大学):投影の揺らぎ、あるいは多重化するスクリーン内スクリーン

プロジェクションによる映像を提示するスクリーンは、映像が与えるフレーム外への示唆によってフレーム内外の連関を観客に読み取らせることにより物語を展開推進するメカニズムを構築してきた。フレームは古典的な説話機能を担ってきたのである。スプリットスクリーンという形で、さまざまにスクリーンを分割する手法が登場してきたが、本質に変化はなく、たとえば2画面分割などは一種の平行モンタージュと言えるのではないか。しかし、デジタルテクノロジーが新たな説話機能をスクリーンに与える事態が到来している。『DEMONLOVER デーモンラヴァー』(オリヴィエ・アサイヤス、2002)では、登場人物がコンピューターのモニター画面をのぞきこみつつ視線をそこから逸らすとき、確かに従来のフレーム内/外の説話機能をスクリーンフレームが再獲得するものの、モニター画面がそのままをスクリーンに投影される場合、従来のフレームの持つ機能は停止する。フレーム内で完結する「平面」のデジタル・イメージは、フレーム外の空間を暴力的に無効化し、観客と「平面」を見る登場人物は等価の情報を提供され、その関係はいわば「民主化」される。ここに従来のフレーム内/外のメカニズムが観客に提供した登場人物が持ちえない映画世界の情報による説話展開の推進が無効化する。「平面」のデジタル・イメージとしてのインターフェースそのものが新たな説話的機能を担うことになる。この事態を考察するための症候的作品例として『エネミー・オブ・アメリカ』(トニー・スコット、1998)が取り上げられる。この映画はタイトルそのものが暗示するようにチェースをその内実とするが、フレーム内/外のメカニズムによって説話的に成立するのではなく、いわば一種のテレビゲームとしてデジタル情報を基にインターフェース内でのみ展開し、ハリウッド映画の大きな物語が完結せず、インターフェースそのものが観客に感覚的な刺激を与えスペクタクル性を獲得する。配布レジュメの最後に、レオ・チャーニーをひいて、「ポスト・モダン映画は、物語ることとアトラクションのバランス(映画史における恒常的なポイント)の模索をなおざりに、後者のみを追求してゆく」とまとめられていた。

三人の方から質問が出されたが、最初のお二人の質問は、発表者が取り上げた映画作品以外の作品をひいて、発表者の議論の妥当性の幅をただすものであり、最後の質問者は、スクリーンへのプロジェクションを考察するについて、ファンタスマゴリアに遡及しての論立てが必要ではないかとの問いかけであった。

北村紗衣(東京大学大学院):おネエと女とフリークス―『お気に召すまま』と『ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ』

演劇における女性観客論は宝塚をめぐって展開されてはいるが、総じていえばフェミニズム的な女性観客論は比較的少ない。この状況を踏まえ、二つの演劇作品、『お気に召すまま』(蜷川幸雄演出によるオールメールキャスト版)と『ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ』(鈴木勝秀演出のロックミュージカル)における「女装男優」―前者ではロザリンド役の成宮寛貴、後者では性転換に失敗し股間に怒りの1インチを残すヘドヴィッグ役の山本耕史―の演技分析を通して、ジェンダーを軸とした観客論の視点から、これら男優に対する主にヘテロセクシュアルな女性観客の熱狂的受容のメカニズムを解明する。

蜷川演出によって、戯曲の会話部分がガールトーク的なトーンに改編されたため、女性観客は戯曲展開に親密感をいだき巻き込まれることで、女らしさの「自然コード」を逸脱して女でも男でもない「おネイ」というジェンダーを担い、易々と現実のジェンダー規範を乗り越える成宮=ロザリンドに共感一体化し、ジェンダー規範が蹉跌した「無軌道な世界」へと歩みだす。一方、鈴木演出の『ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ』でヘドウィッグを演じる山本は、性転換に失敗した身体の傷=欠損によって、男でも女でもない存在であり、女性性を際立たせる女装によって傷=欠損を隠蔽すると同時に露出し、一方で男性的肉体を露出することによって、女性性を隠蔽すると同時に露出して、やはり傷=欠損の隠蔽/露出を行い、フリークス的な存在と化して視線を浴びる。この山本=ヘドウィッグに女性観客は熱狂し、なかには、「今のままでいいんだ!」というメッセージを受け取る者も存在する。山本=ヘドヴィッグは身体との違和感をかかえつつ身体を否定せず欠損した身体と心の間にある違和感を肯定する。ヘテロセクシャルな女性観客は、男根支配体制での男性的視線、それを内面化した女性相互間の監視的視線のもとで押しつけられたパフォーマティヴな身体記号を使わざるを得ないが、そこには偽造された身体を演ずる身体と役柄の違和感が存在する。その結果、ヘテロセクシャルな女性観客は、山本=ヘドウィッグの身体違和感とその肯定にそれぞれ共鳴することになる。配布されたレジュメの結びでは、女たちが常に好機の視線にさらされ見せ物として一種の「フリークス」である以上、「フリークス」と呼ばれるあらゆる観客の身体の違和感を問題化する演劇の必要性が掲げられている。

フロアーからは三人の方から質問があり、特に印象に残ったのはお二人目の方の質問で、女性観客が山本=ヘドウィッグへの同一化によって自らの身体に感じる違和感を肯定的に受容する議論は、フロイトに起因する女性の欠如モデルを追認することに陥らないかというものであった。これに対して発表者は、欠如モデルに批判的な姿勢を取るが、欠如モデルが根強く存在し、欠如モデルが現実に作動するなかで圧倒的に女性に多い摂食障害などが起こっている以上、まず戦略的に欠如モデルに議論を差し向ける必要があるというものであった。

三浦哲哉(日本学術振興会):喪失と憂愁:グリフィス的サスペンス

グリフィスにおけるサスペンス形式の発展について、従来は並行モンタージュの位相のみで語られてきたが、並行モンタージュに還元できない視覚的イメージの構成によるサスペンスの実現こそがグリフィスにとってより根幹的なものである。並行モンタージュには、いわゆるチェース映画(救出劇)においてフレーム・アウト/インの継起で、言葉を使わず起承転結の明快提示、チェース行為の背景の風景総体のスペクタクル的提示、加えてチェースによるフィルム尺の時間的融通性からサスペンスの強度を操作できるという利点があった。これに対してグリフィスは、ヴァイオグラフ社での初監督作品『ドリーの冒険』(1908・12分)―誘拐犯が少女ドリーを樽に隠し、樽は車で移動し、途中で川に転落・漂流し、偶然釣り人に発見され、奇しくもそこへ父親が到着して、樽からドリーが出てくる―で、レパートリーとしての救出のプロットをドリーの誘拐・救出において踏襲しつつも、犯人が少女を樽に隠すというアイディアによって、空間的運動のサスペンスとしてのチェース映画にはない、消失したものの記号として作動する媒介的なイメージを映画に導入した。その結果、消失したものがその媒介的イメージとして循環・流通・回帰する新たなサスペンス構造が作り出された。見せないことによるサスペンスの実現である。(グリフィス的サスペンスの第1テーゼ:「サスペンスは喪失によって開始され、その喪失物の媒介と循環運動によって構成される」)ただ、『ドリーの冒険』において一点注目すべきは、回帰がきわめて因果論的に析出されるのではなく、予定調和的に実現することである。さて、処女作以降の作品においても、この種の媒介的イメージがグリフィス作品に使用されていくが、この媒介的イメージの導入は、映画の同一空間を複数の層に分割する。ドリーの誘拐劇では、登場人物(犯人・父親)のヴィジョンに隔たりが生じ、それは観客のヴィジョンとの間の隔たりにも及ぶ、同一空間にいながらそれぞれが異なる空間を生きる。ここでは、初期における連続的空間による隔たりがサスペンスを実現するのではなく、後にヒッチコックが同一空間の多層性を梃子にサスペンスを生みだしたように、隔たりによって映像の中に階層性を設定することで、映像の中への届きようのなさを生みだされサスペンスを実現する。この階層性の意識化として、グリフィスの並行モンタージュは、その出現・使用を従来の説話的解釈ではなく、異なった回路から解釈できる。(グリフィス的サスペンスの第2テーゼ:「離散した複数の映像断片がひとつに回帰するに至るプロセスが、サスペンスの持続を構成する」)

ところで、グリフィスのサスペンスの根幹を形成する喪失と回帰という構造は、グリフィスの南部的出自―南部生まれで、父が南軍の軍人―に由来する古き良き寛容に満ちた騎士道的世界としての喪失した南部の神話化とその回復・回帰に関わると考えられる。『国民の創生』はKKKによる勝利が暴露しているように、南部回帰・回復こそがその根底にあるテーマである。エイゼンシュティンから批判されたようなグリフィスにおける都市社会との調停というテーマの欠如、都市的なもの(=北部的なもの)を不寛容に還元し断罪する姿勢は、想像的過去における理想的融和の反復を志向するグリフィスの19世紀性あるいはロマン主義的な在り方を示しているであろう。ここにおいて、すでに指摘したグリフィスにおける予定調和的な回復・回帰の意味を明らかにする、彼のサスペンスの第3のテーゼを提起できる―諸断片の間に生じるサスペンスは、かつてあった統合状態を前提とし、その回復によって閉じられる。先に触れた予定調和的結末の根拠は、実は、確立された融合状態への宿命論的な回帰なのであり、断片を統合するものは、この統合状態としての融合的な場所である。こうした場所は、グリフィスの映画において、たとえば、『イントレランス』における時制を超越し、どこにも帰属しない超越的な場としてのリリアンギッシュのゆりかごのシーンに具現化される。観客はこの復帰できる場所の享受に快楽を定位させる。

しかし、グリフィスによる想像的過去への復帰、ゴールとしての帰郷の設定を基底とするサスペンス形式は、20世紀サスペンス史の起点になるであろうが、第一次大戦は帰郷の不可能性、断片の融合状態への回帰不能を突き付けることになり、そうした不可能性を孕んだラングなどのサスペンス展開が浮かび上がってくる。

時間の関係で最後の部分が圧縮されたが、幸い3名の質問者の一番目の方から、発表者がレジュメに提示していたグリフィスのサスペンスの破産について説明を求める声があがった。発表者から、『イントレランス』の興業的失敗と第一次大戦が南北戦争の反復であり、もはや夢物語は成立しないという応答があった。最後三人目の方の質問は重要で、パラレルアクションなどの説話機構を視覚的な喪失・隠蔽・発見のメカニズムと同じ次元の説話的機構のオールタナティヴとして捉えるのが適当か、さらに、消失と回復は、物語のレベルではなく視覚的表現のレベルであるという説明だが、消失とその回帰は、全体の根底において力学的に作動するのではないか、またフィクションの根底としてのフロイトの糸巻きをめぐる子供の問題系とどのように関わるのか、というものであった。発表者は質問者の提起を事前に織り込みつつも、サスペンス映画論での説話のみに寄りかかった従来の議論構成に対して対抗軸を提示したかったのであり、また、不在・出現の問題系として精神分析とサスペンスの関係も思考ターゲットに入っており今後展開としたいと応答された。

石橋 今日美

北村 紗衣

三浦 哲哉

犬伏 雅一


犬伏雅一(大阪芸術大学)


発表概要

投影の揺らぎ、あるいは多重化するスクリーン内スクリーン
石橋今日美

1950年代、アメリカ全世帯の三分の二がテレビを所有し、観客動員数の低下に危機感を抱いたハリウッドのメジャースタジオが、大画面で鑑賞する欲望をそそるスペクタクル大作を続々と製作した。今日、映画制作現場におけるデジタル・テクノロジーの大々的援用によって、ハリウッド映画はもはや大きなひとつのスクリーンに投影されるには飽き足らないような現象が認められる。つまり、母体となる大画面の内部に複数の画面(監視カメラのモニター、コンピューターのスクリーンなど)が増殖し、そこには古典的アナログ機材による撮影手法や投影を起源としないイメージがディスプレイされている。こうした新たな支持体に披瀝される、さまざまなイメージは、いかなる特徴を持つものなのか?多面化するスクリーン内スクリーンとそこに展開するイメージは見る主体にいかに働きかけるのか?デジタル映像技術によって可能となったスクリーンの増殖は、物語の構築にいかなる影響をあたえるのか?こうした問題系を考察の射程に入れた上で、アナログ機材による作品で同様のスクリーン内スクリーンの画面構成を実現した作品と、90 年代後半から現在に至る作品を比較検討してゆきたい。また携帯電話をはじめ、ますます身近になったデジタルヴィデオ機器の使用によって、どのような映画的創造が可能であるか、映画学的視点のみならず、メディア的アプローチも加えた発表を行う予定である。

おネエと女とフリークス——『お気に召すまま』と『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』
北村紗衣

本発表はジェンダーを軸とした演劇における観客論の試みである。日本において宝塚をはじめとする女性向けの大衆的な演劇は「女子供のなぐさみ」と見なされ、批評の対象になりやすい「芸術的な」演劇とはかけ離れたものと見なされてきた。とりわけ商業的な演劇を見る側としての女性に関する研究は、作る側としての女性を主題としたものに比べて少ない。この発表では、2007年から2008 年にかけて女性の人気を博した2 つの舞台、蜷川幸雄演出のシェイクスピア劇『お気に召すまま』と、山本耕史主演のロックミュージカル『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』をとりあげ、なぜ女性たちがこの舞台に熱狂したのかを観客論の視点から考察することとする。この2 つの公演には女装した男優が主役を演じるという共通点があるが、どちらにおいても主演の男優たちは歌舞伎の女形のような「女に見える」女役ではなく、むしろ女の衣服と男の肉体の間の齟齬をそのまま舞台上にさらすような演技を見せていた。このような「女らしくない」女役たちは、女性観客が日常的に感じている自らの女としての身体に対する違和感を、異性装によってデフォルメして表出しているがゆえに女たちから支持を受けるのではないだろうか。本論考においては、女装する男優たちと女性観客たちの間に生まれる親近感に着目することにより、演劇を見る主体としての女性観客の経験を浮かび上がらせることを目指したい。

喪失と憂愁——グリフィス的サスペンス
三浦哲哉

本発表の対象は、D.W.グリフィスの作品群におけるサスペンス形式である。グリフィスはバイオグラフ時代(1908-1913)に、従来のチェイスフィルムにおけるサスペンス形式を質的に変容させる。それは「喪失」の主題に関わる。「喪失したもの」は、様々な仕方で視覚的に媒介され、循環し、単一かつ連続しているはずの時空間の知覚に宙吊りをもたらす。本発表の第一の目的は、処女作『ドリーの冒険』(1908)等の分析を通し、「喪失」をめぐるサスペンスが、映画の時空間表象を基礎づけたとされるグリフィスの形式的試みにおける、ひとつの重要な内的動因であることを示すことにある。

「喪失」の主題は、グリフィスが自ら繰り返しとりあげてきた南部の表象と関わる。失われた南部の回帰を描いた『国民の創生』(1915)、続く『イントレランス』(1916)における破綻を経て、グリフィスは、リリアン・ギッシュ主演のメロドラマにおける倒錯的な「憂愁(spleen)」のロマン主義へ傾斜する。それは、グリフィス作品の参照先のひとつであるエドガー・アラン・ポーが示した、「全一性」と「死」と「憂愁」に枠付けられた創作論の映画における反復として捉えることができる。本発表の第二の目的は、サスペンスの思考の先駆者ポーを補助線として、映画におけるサスペンス形式の最初の画期をなした「グリフィス的サスペンス」の可能性と限界とがいかなるものであるかを示すことにある。