PRE・face

あたらしいフェスティバルの行方
森山 直人

「フェスティバル/トーキョー(F/T)09春」が閉幕した。今年誕生したこの新しい舞台芸術祭は、2016年の東京五輪(なんと古めかしい響き!)招致運動の一環として位置づけられた、企画自体としては明らかな政治的イベントなのだが、実質的な運営は、NPO法人アートネットワークジャパンが行なっている。このアートNPOは、もともと「東京国際芸術祭」を長年にわたって運営してきた実績をもち、近年では2004年から4年間つづいた「中東演劇シリーズ」のようなユニークなプログラミングで注目を集めてきた。33歳の女性プログラム・ディレクター、相馬千秋氏がほぼ単独で選んだというプログラム全体のキャッチフレーズは、「あたらしいリアルへ」。2月26日から3月29日まで、直接主催するプログラムだけで17本を数える(大学でつくられた作品4本を含む)演目が、にしすがも創造舎と池袋の東京芸術劇場を中心に上演された。

「あたらしいリアルへ」といっても、プログラム全体を注意深く見てみると、実は「あたらしさ」や「リアル」といった概念の単純な解釈に疑問を投じる構造になっているところが、フェスティバルの良質性を物語っている。記念すべきオープニングを飾る演目のひとつは、2000年に結成され、現在、名だたるヨーロッパの国際演劇祭で次々に新作を発表しつづけているドイツのグループ「リミニ・プロトコル」が2006年に初演した『資本論第一巻』。昨年東京で上演された『ムネモパーク』で、スイス在住の本物の鉄道オタク四人を登場させたこの集団は、作品のテーマに関わりのある素人を集めて作品をつくる「ドキュメンタリー演劇」の方法を真骨頂としているが、今回の『資本論第一巻』でも、現役マルクス経済学者、旧東独の珍品レコードを収集している盲目のDJ、本物の元ギャンブル依存症患者といった人々が、次々に「自分の人生」を語る。もちろん、「本物」や「自分自身」といった概念自体が問題化されるのが、「舞台」という時空間の本質である以上——そのことを、たとえば古橋悌二の遺作となったダムタイプの『S/N』(1995)などはもっともラディカルに活用していたのだったが——、この作品でも、そこで語られる内容の真偽は、結局のところは宙吊りのまま進行するほかないのだが、そのようなナラティヴを通じて徐々に浮かび上がってくるのは、マルクスが書き残した内容以上に、マルクスが書き残した言葉が物質となって現前する「書籍」としての『資本論』の存在感なのである。ここでは、過去世界中で出版された『資本論』のさまざまな版が、出演者によって言及されたり、手にとられたりする。なかでも印象的なのは、二人の盲人の出演者の膝の上におかれ、折に触れて朗読されるドイツ語と日本語の点字訳『資本論』の、「本」としての滑稽なまでの大きさである。

作品の半ば過ぎには、突然書棚にぎっしり置かれていた大月文庫版の朱色のカバーの『資本論第一巻』(三分冊セット)が、観客全員に配られる(終演後、ロビーにて回収)。「本」というこの奇妙なリアリティを介して、言葉が歴史を変えていくことの不可思議さをライブで体感しながら、このフェスティバルの目指している方向が、何が新しいリアルなのかを性急に結論づけることにはなく、むしろわれわれのすぐ身近に、いわくいいがたいものとしてたえず存在している「リアリティ」を読み解くための新しい方法を見出だそうとすることにあることを予感させるに十分であった。他の演目を含めた全体については機会をあらためる他はないが、「舞台」のありうべき活用法に関心のある人にとって、一度は訪れる価値のあるフェスティバルであったように思う(秋のフェスティバルは今年の10月に開幕予定)。

2009年4月
森山 直人(京都造形芸術大学)