座談会 ページ3

学会誌『表象』刊行記念座談会
「新しいアソシエーションの形をもとめて」

桑野 隆(早稲田大学)   中島隆博(東京大学)
門林岳史(日本学術振興会特別研究員)   宮崎裕助(日本学術振興会特別研究員)
佐藤良明(広報委員会=司会)

佐藤 そういったフィードバックのリンク作りが、広報担当者の仕事かと認識します。「越境する」というのが今回のテーマですけど、べつに越境について論じるのが越境ではなく、実際に自分の足で、頭で、越えて、つながっていかなくちゃならない。一応『表象』というのは日本の雑誌ですけど、日本といっても広いですから、今後、いろんな大学で表象系の学部学科があらたな人材を得ていく流れのなかで、列車にのって越境しなくちゃならないケースも増えてくるかもしれませんね。

桑野 発足以来、このメンバーでやっているわけですけれど、早いうちに、駒場の表象出身以外の方が何人も加わるというふうになってほしいですね。

佐藤 これだけたくさんのジャンルから論文がきうるわけですから、雑誌をつくる側の流動性ということが大事な要素になりましょうね。そこでお聞きしますが、専門性の強い学会だと、論文投稿というのが、書き直しの指導を含めて、するどく教育的な場になるという傾向がありますけど、ジャンルの越境をうたい文句にした学会として、われわれはそういう側面を、どうやってこなしていったらいいとお考えですか。

桑野 査読は、規約に書いてある通り、できるだけふわさしい方を求めて、会員以外の方にも広くお願いしています。今回お願いした方々も、ていねいな「批評」を返してくださって、これは投稿された方に、採用のいかんにかかわらず、すごく刺激になったのではないかと思っています。

宮崎 読んで面白いことはもちろん大事ですが、学問としては専門家の評価を度外視するわけにいきませんので、そのへんのバランスをどうとるのかが一番難しいところでしょうね。その点を見極めたり橋渡ししたりすることこそ、編集委員のもっとも重要な仕事なんだろうなという気がしています。ただ、本当に面白いものは、いわゆる学問的な水準もおのずから満たすものであるはずだ、とも思うんです。無根拠な確信かもしれませんけど(苦笑)

佐藤 新しい、面白いものを集めて、その学術的品質をチェックにかけるという、そのしくみがしっかり機能してくると、一つの学会を超えた<運動>になっていきますよね。まさに「越境するヒューマニティーズ」の拠点づくりという話でしょ。

中島 面白いものを見いだす嗅覚というものが、ことさら重要になってきます。われわれは初夏の大会のほかに、秋にも発表集会をやっています。そうやっている中で、あっ、こんな新しいことがでてきたという発見がありますし、その発見を雑誌で紹介できるわけです。学会の中心に権威があって、そこから事が始まるのとは反対に、いままさに生じてきている波を掴んで増幅するということは、それ自体が非常にスリリングな行為です。

佐藤 そうですね。話が、とてもきれいにまとまってきたようでありがとうございます。原稿をおこすときもそういう理想的な面を強調していこうと思いますが(笑)、一方、ありうべき批判として、この号のなかでもどなたかおっしゃってましたが、「既視感」という言葉がありますよね。なんかこの「あたらしさ」「スマートさ」ってどっかで見たことあるよね、という感じ。それについてはどんな意識をお持ちですか。  
  とたずねておいて、自分でしゃべってしまいますと、われわれはほんとに重い敵を相手にしているんだと思うんです。 人文学の閉塞という状況は大学の制度と日本の文化に居座った非常に重い敵なんですね。だから、その重さ、不活性さにいらついて飛び出る少数の人たちがエクサイティングな研究を支えるという構図自体が、似たようなかたちで続いていくことになる。それはあたりまえのこととして、しかし「飛び出かた」自体が進化しているんじゃないか。われわれはもう1980年代を生きているわけじゃないんだから変わって当然ですが、そのへんいかがですか。

門林 まず経済的な条件が大きく違いますよ。「既視感」を感じる人たちが回想するだろう80年代の好景気の風景はいまはないわけで、実際『表象』を出すにあたって、金銭的にもつらい思いをしました。でも、この条件のなかから、はい上がっていくということこそが、いま言われた人文学の閉塞というすごく大きな敵と戦っていくということと、たぶん切り離せないと思うんです。学会誌をちゃんと流通させていくということは、人文学をどのように経済的になりたたせていくのかということということでもあり、それは表象文化論学会を破産させないということでもあるんですね。すごく大きな問題を語ってしまいましたが。

佐藤 どうやったら大学を「食って」いくことができるか、ということですよね。こういうものを作りつつ、どうやって大学のなかに、われわれの根を、より深く張っていくのか。

中島 さっき「既視感」という言葉を聞いてカチンときていました。そういう言い方をする言説自体が、ぼくは無意味だと思いますし、苛立たせられます。80年代にたとえ「魅力的」な議論が栄えていたとして、ではそれが大学という場所とそのあり方に関してなにか有益なことをしえたのか、若い人に勇気を与えることがほんとにできたのかというと、疑問を感じてしまいます。学問というのは、人と人が一緒にやることでしかないと思うんですね。大学以外にも多くの場所はありますが、若い研究者にとってはまずは大学が重要な場所です。ですので、大学という場所があたらしい場に変貌していかないといけない。それはこの間の「大学改革」とは必ずしも一致しないと思います。「改革」の果てにたどり着いたのは、疲弊しきった場所です。「既視感」を語る前に、こんなものしか生み出さなかったことの尻ぬぐいを誰がさせられているのかを考えるべきです。  
  表象文化論というのは、同時に制度論でもあると思っています。それは学問の形をどんなふうにダイナミックにデザインしていくのかということです。ですから学会にしても、従来とは違った形でデザインしていくし、雑誌もぜんぜん違った作り方をしていくしかありません。未来の association のあり方が示されなければならないと思うのです。そこからしか、学問的な新しさなんて生まれるはずがないですよ。誰かの仕事をつついて、これは新しいだとかこれは古いだとか、そんなことを言っている場合じゃない。問われているのは、学問の条件です。それをどうやって具体的に作っていくかということ。まだ大学に定職のない人たちが、こうやってすごい努力をして、こういう学会誌を作ったわけで、ここにこそ、新しい学問の条件が具体的に表われていると思うのです。外にいる人たちにもぜひとも呼びかけたいですね。「一緒に自分たちの学問の条件を作ろうぜ」って。

門林 これまで大会等にあつまってくれた人を見ると、駒場の人たちが数の上では多かったなかで、駒場の外で従来の枠に収まりにくい研究をしている人で、この学会だったら受け入れてもらえるかなという期待をもって応募したんだろうなという人が、かなり目立つ形でいたと思いますね。で、この学会誌も『REPRE』もそうですけど、論文や記事を公募しているわけで、それがほんとにウェルカムなんだということをしっかりアピールしていきたいです。