第7回大会報告 リヴォルヴィング・エボリューション――アニメーション表象の新世紀|第I部 シンポジウム

リヴォルヴィング・エボリューション――アニメーション表象の新世紀|第I部 シンポジウム「幾層ものレイヤーが蠢く――トマス・ラマール『アニメ・マシーン』から出発して」|報告:土居伸彰

2012年7月7日(土) 13:00-15:00
東京大学駒場キャンパス「21 KOMCEE(理想の教育棟)」レクチャーホール

トマス・ラマール(マギル大学)
津堅信之(京都精華大学)
石岡良治(批評家)
【司会】土居伸彰(東京造形大学)

ここ30年ほどの歴史しか持たないアニメーション学がいまだにおぼつかないものでありつづけるなか、1990年代以降、世界的に広がりを見せる日本製商業アニメーション、いわゆる「アニメ」は、むしろその専門家以外からの言及を多く引き出すことになっている。それぞれの語り手が持つ文脈から「いいとこどり」のようにしてアニメが言及され研究されていくなかで、アニメに対する(幾分根拠のない)イメージは肥大化し、一方で、その実像についての認識は曇り、歪められていく。

トマス・ラマール氏の著書The Anime Machine: A Media Theory of Animation (University of Minnesota Press, 2009, 『アニメ・マシーン――アニメーションのメディア理論(仮)』というタイトルで名古屋大学出版会より近刊予定)が果たす役割はそういった状況のなかで大きい。この本は、前述のいわば「搾取」とでもいえるようなアニメに対する言及について批判しながら、アニメーションに対して、(たとえば日本文化論といった)隣接する外部との関わりを探るのでもなく、もしくは主題論や作品解釈といったアニメーションでなくとも成立するアプローチによってでもなく、アニメーションそのものの根本的な部分である「運動」に注目することで真っ向からの考察を行う。『アニメ・マシーン』は、世界的に見ても特殊な発展を遂げる日本のアニメにおける、ユニークな動画の生成のシステムを考察の中心にすることで、作品の世界観について考察し、アニメーション研究に新たな地平を拓くのみならず、デジタル以後の映像論一般や、広くモダニティの問題について考えることも可能にしている。

基調講演となるラマール氏のプレゼンテーションでは、『アニメ・マシーン』の基礎となるアニメにおける独自の動画生成システムについての説明が丁寧に行われた。アニメの運動は、キャラクターそのものの動きというよりも、背景やキャラクターなど複数に分かれたレイヤーをそれぞれに動かすこと(つまり「引きセル」)によって生まれている。ラマール氏は、従来考えられてきたように、アニメが止め絵の有効的な活用によって生み出された「静的な」ものであるという一般的な理解に対して異議を唱える。レイヤーのコンポジティングが生み出す運動は、充分すぎるほどに「動的な」ものなのだ。(宮崎駿作品の持つ運動性がその例証となるという指摘は慧眼である。)

アニメの特殊な運動生成メカニズムへの注目は、アニメがアニメーションの領内において新たなるパラダイムを生み出していることも明らかにする。(特に欧米の)アニメーションをめぐる言説において、ディズニーを代表とした「キャラクター・アニメーション/フル・アニメーション」が唯一正統なものとみなされがちな状況のなか、『アニメ・マシーン』が導入するレイヤーのコンポジティングという視点は、これまで劣ったものと考えられていた「リミテッド・アニメーション」が、新たな美学と世界観、観客との関係性を打ち立てていることを明確にするのである。

ラマール氏のプレゼンテーションのなかで語られたその一例は、アニメは「アニメティズム」に基づくということである。「アニメティズム」は「シネマティズム」の対義語として考えられた造語だ。ラマール氏によれば、複数のレイヤーのコンポジティングによって運動・世界観を生み出すアニメは、奥行きの表現が難しく、必然的にパノラマ的な世界を作り上げざるをえない。(1998年の『スプリガン』におけるイスタンブールの都市描写が例として挙げられた。)ディズニーに代表されるような、疑似3D空間を作りだすことで作品世界に全体化された感覚と奥行きを与えようとする「シネマティズム」的な作品とは異なり、平面に分かれ、統一化されない世界観を生み出すことになるのだ。(そのことが、アニメにおける熱烈なファンコミュニティの形成と二次創作活動の隆盛という爆発的な拡散の事態を生み出す。統一化されないがゆえに、受け手側での補完が必要となるのである。)

プレゼンテーション冒頭で、ラマール氏は、アニメをレイヤーのコンポジティングという観点から捉えなおすことによって、デジタル前史としてのセルアニメという考え方も可能になるとも語っている。ラマール氏の視点は、アニメーションを考えるのみならず、映像文化一般にとっても意義深い示唆を与えるものなのである。

続く津堅信之氏、石岡良治氏のプレゼンテーションは、『アニメ・マシーン』を受けての日本側からの応答となった。

津堅氏は、「アニメ」という言葉の成り立ちについて、ラマール氏が「外」からの視点を採用したとすれば、ある種の「証言者」的な、「内」からの視点も交えつつ(「オタク」と呼ばれる人々が誕生したガンダム世代の一員として)、「選別」を行うフレーミングとしてのそのあり方を浮かび上がらせた。日本の商業アニメーションを指す「アニメ」という言葉の誕生が、自分たちこそがその言葉の領内にある作品を一番理解しているのだといったような、作品をめぐる空気の異様さ・排他性を導き出し、そして、映画畑の人間や海外からの評論(つまり「オタク」ではない者たちからの見方)を「分かっていない」ものとしてみなすようになったことなどが当事者的な立場から語られた。

津堅氏は続いて、「アニメ」と呼ばれる作品が持つ一定の傾向を、いくつかのキーワードによって導き出そうとする。「アニメ」の起源として津堅氏が重視するのは、1963年に開始した「鉄腕アトム」のテレビシリーズである。日本のみならず世界的に見ても例を見ない毎週一回30分の放映というフォーマットこそが、『アニメ・マシーン』が考察の中心とするアニメの独自のスタイルを生み出したと考えるのである。津堅氏が指摘する「アニメ」の特徴は、日本製、商業作品、セル画の使用(デジタル化の進む現在においてはセル画ルックである絵柄の使用)、物語性の重視、キャラクターの目の大きさ、戦う女性キャラクターの多さ、平面表現をベースにした3D表現の導入、撮影時の特殊なエフェクトの付与など多岐にわたった。そういった作業を経て、津堅氏は最終的に、スタジオ・ジブリ作品が「アニメではない」と(作り手本人からも)みなされることが起こるなど、アニメというフレームが常に動いていることを最終的に指摘する。「アニメ」という言葉が、それを使う人々による文脈の共有の上に成り立つ、流動性の高いものであるということが示されたといえよう。

石岡氏のプレゼンテーションは、『アニメ・マシーン』の議論への応答かつ応用といえるようなものだった。ラマール氏が「アニメ」の動画生成の方法を考察の中心と据えるのに対し、石岡氏は、テレビシリーズがアニメの独自性を生み出したという津堅氏の議論もふまえるかたちで、近年ますます隆盛を誇る「深夜アニメ」が内在させるアニメの力学の考察を行った。 複数のレイヤーのコンポジティングを基礎に持つ「アニメ」においては、イメージ間の編集よりもイメージ内の編集が優先されると石岡氏は指摘する。その上で、深夜アニメ自体もまた、作品を構成する複数の構成要素をコンポジティングする、ある種のイメージ内編集を重視しているのではないかという仮説を立て、議論を展開する。

その例証として石岡氏が選んだのは、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)である。テレビアニメは一般的に、アバンタイトル→オープニング→Aパート→Bパート→エンディング→エンドタイトルという構造を持っているが、『まどか☆マギカ』が明らかにするのは、その中で常に安定して存在するのはAパートとBパートのみであり(このテレビシリーズでは、たとえば、オープニングの省略などが頻繁に起こる)、その自由なコンポジティングによって作品に力を持たせることができるということである。石岡氏は、内在する複数のパートのコンポジティングを行うものとしての深夜アニメの可能性が、『まどか☆マギカ』を通じて顕在化していると指摘するのである。

石岡氏はさらに、『アニメ・マシーン』が、『ふしぎの海のナディア』(1990-1991)の「島」編という他のエピソードと比べてクオリティが劣るがゆえに低評価に甘んじているパートを積極的に評価することに示唆を受け、様々なクオリティの映像が共存する場としてのアニメの姿も明らかにする。『まどか☆マギカ』において象徴的なのは、魔法少女たちが戦いを繰り広げる魔女の世界の特異な映像である。劇団イヌカレーが担当するそのパートは、作品の大部分を占めるセル画的な見た目から大きく離れ、先行するアニメーション表現からの剽窃を大胆に行いながら、アニメとはまったく異なる雰囲気・質感を持った映像をも作品内に取り込んでいく。

『アニメ・マシーン』をめぐるシンポジウムは、様々な観点からアニメそのものに内在する機構のようなものを考察した。今後のアニメ研究に対する大きな示唆を孕むものとなったことは間違いないだろう。

土居伸彰(東京造形大学、日本学術振興会特別研究員)