第7回大会報告 パネル2

パネル2:結晶化する物質―切り貼りにおける時間と固有性|報告:天内大樹

2012年7月8日(日) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2

結晶化する物質――切り貼りにおける時間と固有性

流転するスクラップ――金子静枝「棄利張」の分析を通じて
木下知威(日本社会事業大学)

キマイラとしての肖像――アルチンボルド作《ウェルトゥムヌスに扮する皇帝ルドルフ2世》(1590-1591)をめぐって
小松浩之(京都大学)

修復における「切り貼り」の倫理――バーネット・ニューマン論争とヴァンダリズム
田口かおり(京都大学)

【コメンテーター/司会】大橋完太郎(神戸女学院大学)

われわれは日常的に「切り貼り」に親しんでいて、一通のメールすら引用文という形で過去の複数人の声を重層的に現在に響かせている。しかしその親しみは容易に暴力に転じ、人々の意図を歪め、悪意をあぶり出す炎を立ち上げる。例えばネットメディアに典型的な即時性が直近の過去を粘着質の澱にするとすれば、これに対抗するのは「切り貼り」されたものが現在に立ち上げる強い(暴力的な?)固有性になるだろうか。切り取られたものはいかに元の文脈、時間性から切り離され、貼り合わされたものはいかに独自の文脈、固有性を築くのか──これが本パネルの意図を(願わくばさほど歪めずに)「切り貼り」した問題意識となる。

パネル構成者の木下知威氏は、1885年から没する1909年までを京都で過ごした金子静枝が、小新聞『日出新聞』に勤務しながら同紙記事を切り貼りしたスクラップブック『棄利張』を、綿密な調査の下に紹介した。その固有性を探るべく木下氏は、「美術」「工芸」と分類できる記事群がスクラップブック上に、いつどのように配置されたかを大村西崖との関係から主に検討した。「美術」「工芸」というジャンル自体、ある種の「切り貼り」で成立したことに鑑みると、電信や郵便までを含む諸芸(事実『棄利張』に取りあげられたテーマである)との連関を検討することで、概念の幼年期だった当時における金子の固有性がさらに浮かび上がるだろう。

ついで小松浩之氏は、変化の神ウェルトゥムヌスの神話を元に詩や彫刻と絵画を対話=競合させた画家アルチンボルドを取りあげた。1590年から翌年にかけて制作された彼の絵画《ウェルトゥムヌスに扮する皇帝ルドルフ2世》において、種々の農業作物を用いてゼウクシス的手法をパロディ化した手法「合成肖像teste composte」が使われた。小松氏は、この絵画に対する当時の受容を、詩を通じた「声」による、自在な変化でゆらぐウェルトゥムヌスの姿の再演として捉えた。パロディという点に関しては、後の質疑応答で、木下氏の扱った金子静枝の「口合」と重ねて、「切り貼り」と言葉遊びとの関連が指摘された。異なる文脈が発生させる意味を一つの発音に重ねる口合には、異なるもの同士の共通点つまり媒介項に気付かせるという「機知」を該当させられるが、異なる文脈下に同じものを反復するパロディは内容の希薄化を伴う。これまでの美学であまり扱われなかった所以でもあるが、小松氏はこれを詩の検討により補ったといえる。

最後に田口かおり氏は、ヴァンダリズムに遭ったバーネット・ニューマン作品の修復手法をめぐる現代の論争を紹介した。論点は可逆的な技術を採用したか否か、またオールオーヴァー絵画における色彩の単一性というニューマンの意図を崩す修復を認めるべきかであった。問題はまさに、作品の背負うべき時間性をめぐり、作品の固有性をいかに保持するかに掛かっている。ここにニューマン独特のアナーキズムの問題が重なると、ヴァンダリズムは新たな作品創造に帰属し、修復が破壊へと転じる契機も生じた。現代美術全般の保存・補修の問題を見渡すと多面的な議論は可能だが、質疑ではミュージアムそのものが「切り貼り」で成り立っている点が指摘され、木下氏の発表中の博覧会、小松氏の発表中の王宮コレクションなどが参照された。

大喧嘩を「切った張った」と表現する点も質疑で提示されたが、政治性や暴力性を孕んだ編集判断としての「切り貼り」をテーマとして改めて取りあげた意義は、上記の議論から明らかであろう。三者とも編集されてできたものの作品性、完全性を前提としたようにも思われるが、特に木下氏と田口氏の物質に基づいた検討と、小松氏の発表から読み取れる笑いの力とに、可能性を感じる。

天内大樹(東京理科大学)

【パネル概要】

本のページに付箋を貼り付けるように、わたしたちは日常的に切り貼りをして体系化を行っている。手記、新聞記事、写真を切り抜いてノートに貼り付ける行為(スクラップ、カット・アンド・ペースト)、あるいはウェブにおける情報管理ツールのEvernote、tumblrなどで、選択した情報を蓄積する行為がある。例えば、美術では、キュビズムにおける「コラージュ」「アッサンブラージュ」、ルネサンス絵画において画中に古画を嵌めこむ「嵌入」がある。経済では一度使われた資材を別の場で「リサイクル」「リユース」する産業構造が存在し、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」が様々な形でわたしたちの社会に根ざしている。

こうした営為は、宮川淳が『引用の織物』において「引用」という広範な概念でその全体像を示しして以来、考究がされてきた。この概念に照らし合わせるとすると、改めて「切り貼り」とは何であろうか。そこで本パネルでは、切り貼りについて、2つの問いから分析を行いたい。まず、物質が切り貼りされるという行為により、物質が歴史−「時間」からどのような形で切り離されているのかという問い。そして、それぞれの主体の関心と技術によって切り貼りされた物質はどのような「固有性」があるのかという問いである。この2点を意識しつつ、切り貼りされたものを対象に実証/理論的な分析を行い、「切り貼り」を布置してみたい。(パネル構成:木下知威)

【発表概要】

流転するスクラップ――金子静枝「棄利張」の分析を通じて
木下知威(日本社会事業大学)

本発表は、金子静枝(本名:錦二(1851-1909))によって切り貼りされたと思われるスクラップブックを手がかりに、金子にとって切り貼りとは何だったのかを問うものである。金子は新潟に生まれ、東京で活動したのちに明治期京都の有力新聞「日出新聞」で、美術・工芸の記事、連載小説を発表した操觚者であった。それだけでなく、金子はアーネスト・フェノロサと岡倉覚三による古社寺調査に同行し、京都美術協会や博覧会で活躍する顔も併せて持っていた。このように、金子は美術史の裏方といえる役割があった。そんな金子の唯一の遺品と思われるのがスクラップブック「棄利張(きりはり)」である。これは美術、工芸、寺宝、民俗、風俗、武芸に至るまで幅広い新聞・雑誌記事が貼付けられているもので8冊が個人蔵で確認されている。

本発表は以下のように構想されている。まず、発表者が作成した金子の年表をもとに人生と業績の「全体像」を可能なかぎり描き出す。次に、「棄利張」のネーミング、装丁、下地、綴じ、目次、集積された記事の内容・分類の特徴、切り貼りの方法(配列)、筆跡などを分析する。同時に近代京都の実情、明治期新聞の特性も意識しつつ、「棄利張」が金子によって注意深く作成されたものであることを証したい。そして、金子の人生像と「棄利張」の特徴・作成時期を関連づけ、金子にとっての切り貼りとは、明治時代の京都における知の体系である新聞記事を切り貼りすることで、記憶術として自己のなかに沈澱させるものであり、同時に時間を超越して残存することで、明治時代への覗き眼鏡として機能しているといえるのではないだろうか。


キマイラとしての肖像――アルチンボルド作《ウェルトゥムヌスに扮する皇帝ルドルフ2世》(1590-1591)をめぐって
小松浩之(京都大学)

本発表は、ジュゼッペ・アルチンボルド(1527-1593)による「合成肖像」のひとつ、《ウェルトゥムヌスに扮する皇帝ルドルフ2世》について考察するものである。アルチンボルドによって練り上げられた「合成肖像」の詩学は、まさに“切り貼り”と呼べるものではないだろうか。肖像と静物のあいだを往来するかのような本作品でもまた、自然にあるさまざまな植物が写生によって“切りとられ”、モチーフの形態あるいは意味の論理にしたがいつつ、人物像の枠組みに“張りつけられている”。

本発表では、このようなアルチンボルドの“切り貼り”的な手法を、同時代の芸術理論における模倣やグロテスクをめぐる議論の検討を通して描出する。このプロセスを経て、なぜこのような継ぎはぎの肖像が可能だったのかという根本的な問いに立ち返ることになるだろう。くわえて、同時代のミラノの知識人たちがこの肖像をモチーフに綴った詩についても触れる。というのも、本作品とともに皇帝に献じられたこれらの詩にはみな、ウェルトゥムヌス=ルドルフ2世が、観者に語りかけたり、この画家の先行作品《フローラ》(1589)と対話したりしている、という趣向が見られるのである。このことに鑑みれば、本作品は「話すイメージ」として上演されたと考えられるだろう。この「話すイメージ」という特徴に着目して本作品を分析することで、アルチンボルドの詩学を、異なる芸術ジャンルの“切り貼り”という観点から再度検討を試みたい。


修復における「切り貼り」の倫理――バーネット・ニューマン論争とヴァンダリズム
田口かおり(京都大学)

本発表は、美術作品修復における「切り貼り」をめぐる諸問題を、「ヴァンダリズム」の概念を手がかりに考察するものである。張り替えや切断は、修復史において頻繁に行われてきた。いちばん顕著な例は、フレスコ画のストラッポであろう。彩色層を壁や天井から引きはがすこの介入は、不安定な支持体からの救出策として、17世紀以降のイタリアを中心に大流行した。ところが、19世紀に入ると、ジョン・ラスキン(1819-1900)に代表される美術批評家たちがストラッポを批判しはじめる。切断や再付着は、作品に損傷を与え真正性を損害する行為、すなわち「ヴァンダリズム」にほかならない、というのが、ラスキンの主張であった。

これら歴史的経緯を踏まえた上で、本発表では、切り裂き犯により展示中に被害を受けたバーネット・ニューマン《誰が赤、黄、青を恐れるのか III(66-67)》への修復をめぐる問題に着目する。本作品は、切断個所への「裏貼り」修復こそが、作品のオールオーヴァーな画面という固有性と反復不可能な歴史性を侵害するヴァンダリズムだったのではないか、との指摘がなされた興味深い事例である。「切る」ヴァンダリズム行為に対し、「貼る」修復行為は救いとなったのか、あるいはもうひとつのヴァンダリズムとして作品を二重に破壊したのか。「切り貼り」という行為を前に、揺れ動く修復の使命と倫理の実態を、アロイス・リーグル(1858-1905)の提示した経年価値の概念などを参照しつつ、多角的に考察したい。