第7回大会報告 パネル6

パネル6:テクノロジーと戯れる〈音楽〉―現代が生んだ人と音との新しい関係性|報告:恩地元子

2012年7月8日(日) 16:30-18:30
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム3

テクノロジーと戯れる〈音楽〉――現代が生んだ人と音との新しい関係性

20世紀後半のコンピュータ音楽のプログラミング環境とインターフェイスの系譜にみる人間と技術の相互構成
原島大輔(東京大学)

ロバート・モリス《作られたときの音がする箱》における録音の意義
金子智太郎(東京芸術大学)

ゲームはどのように「聴かれる」のか?――ビデオゲーム・オーディオの成立とそのリテラシー
山上揚平(東京大学)

【コメンテーター】渡辺裕(東京大学)
【司会】福田貴成(慶應義塾大学)

研究発表6では、およそ一世紀のあいだに、〈音〉を取り巻く技術環境の変化が音楽という概念や枠組みをどのように問い直し、更新してきたのかという問いへのアプローチとして、コンピュータ音楽のプログラミング環境、音を発する美術作品、ビデオゲームの音楽聴取という、まだ先行研究の少ない領域において、意欲的な発表が行われた。

原島大輔氏の発表は、いわゆる電子音楽、コンピュータ音楽につきものの固有名がクローズ・アップされないという点で、この学会ならではの問題設定であったといえる。プログラミング環境についての、懇切丁寧な通史的概観に多くの時間が割かれたことは、コンピュータ音楽が既にヴォリュームのある研究領域となりつつあることを示す一方、おそらく自身がコンピュータを難なく身体化しているためであろうか、テクノロジーとの関係として結論部分で示された、潔癖なよそよそしさではなく「穢れて混ざり」合うような親密さを体感できるようなプレゼンテーションに至らなかったことが惜しまれる。コンピュータとつき合う身体を、参与観察するような視点が必要ではないかと思われた。

金子智太郎氏の発表は、美術理論の文脈のなかではミニマル・アートに関連づけられ、また美術史と音楽史の交点にあっては「サウンド・アート」、「音響彫刻」などとカテゴライズされがちなロバート・モリスの作品を、録音という補助線を引くことによって新たな視座のもとで解釈する試みで、単なる作品論を超える射程を含んでいた。録音がもたらす音と音源の分離に積極的な意義を見出し、さらには《音がする箱》を、ロダン以降、増えたとされる声を発しているような作品の帰着点と見なすといった指摘は新鮮であった。もう少し理論的枠組みを拡げ、声の位相も吟味し直すことにより、さらなる展開が期待されよう。丁寧でストイックな作業の積み重ねに好感のもてる発表であった。

山上揚平氏の発表は、ビデオゲームプレイを音楽聴取の実践と捉える新たなアプローチを提案するものであった。伝統的な遊び・ゲームにおける二次的な音響、ゲームとフィクション、双方が要請する音響から、視聴覚統合コンテンツとしてのビデオゲームへの道筋はわかりやすく、BGMとサウンドエフェクトの様々な様態が具体的な事例とともに紹介された。ビデオゲームという問題群が、実生活における功罪などに矮小化されることなく新たな地平を拓くためには、一般的な音楽聴取体験に与える影響を検討することが今後の課題とされた。発表では、ビデオゲームプレイは専ら享受する側の体験として捉えられていたが、事後的に獲得された高い聴覚情報処理能力による、〈プレイ〉の成功例は創造とは言えないのか、という素朴な疑問も浮かんだ。

三つの事例から共通項を見つけ出して、聴覚文化を手際よく位置づける座標軸を安易に設定するのは回避すべきであろう。フロアからの質問、コメントを含め、全体討議では、作家性の問題、声の意味、美術作品としてのフォルムの影響などが採りあげられ、テクノロジーと音・音楽の関わりが、多様な問題系を照射する刺激的なテーマであることを示していた。

進行は速やかに行われ、自称「エンドユーザー」のコメンテーター、渡辺裕氏による寛容なるとりまとめが、和やかさをもたらしていた。

恩地元子(東京藝術大学)

【パネル概要】

レコードやラジオの誕生からDTMの流行、ネット音楽配信の一般化まで、ここ約一世紀に於ける「音」を取巻く技術環境の急変は、長い音楽史の中でも特筆に値する。音楽が技術や産業等の唯物的な要因によっても左右されて来たという主張自体は、従来の芸術音楽史に於いても珍しくは無い。しかし、それらの史書が近現代について語ってきた大きな事象――大衆をターゲットとした新しい商業音楽の出現や戦後の前衛たちによる電子音楽の開拓など――は、この変革の重要性を恐らく汲み尽くしてはいないだろう。なぜなら「創られた」音響を日常に遍在させ、様々な場で我々の聴体験に介入する(或は聴体験の機会そのものを創出する)今日のテクノロジーは、既に「音楽作品の鑑賞」という文脈を超えて広く我々に影響を及ぼしていると考えられるからである。

本パネルは、これ迄の音楽研究がカバーしてこなかった社会の様々な場所でのテクノロジーと〈音楽〉との出会いに着目し、改めてより広い視野から現代の科学・技術の発展や新しいメディアの普及が、社会における〈音楽〉の在り方にどの様な影響を齎したのかを問おうとするものである。ここで敢えて括弧付きの〈音楽〉を用いるのは、まさに技術・メディア環境のラディカルな変容が、音楽という概念や枠組みそのものをも現在進行形で問い直させていると予測されるからに他ならない。果たしてこの変化は人と音響現象とのどの様な新しい関わり合いを生み、またその中でどの様な新しい〈音楽〉の認識が生まれつつあるのか、この大きな問いに出来るだけ多角的にアプローチする事が本パネルの目的である。(パネル構成:山上揚平)

【発表概要】

20世紀後半のコンピュータ音楽のプログラミング環境とインターフェイスの系譜にみる人間と技術の相互構成
原島大輔(東京大学)

20世紀中盤、サイバネティクスや一般システム理論や情報理論に代表されるような、人間と機械とをひとつの生態系に組み込むことで思考を展開するタイプの理論モデルが発展した。それは、一方で人間を環境との複合システムや構築物として理解する地盤を涵養し、また他方ではコンピュータと協働する人間が地球規模で繁栄する基盤を整備することになる。

コンピュータ音楽もその影響の圏内にある。その制作環境のなかでも基礎的な役割を担ってきたのがプログラミング環境であり、関連する多様な技術が開発され、そのインターフェイスも一見すると多様な様相を呈してきたが、その根底的な設計理念はいずれも、1960年にマックス・マシューズらがベル研究所で開発したプログラミング言語MUSIC IIIに実装されたユニット・ジェネレータの理念と同じ地平のうちにおさまるものであるとみなすことができる。

それぞれ固有の機能を備えた複数の信号処理関数モジュールがその変数を相互依存するかたちでネットワーク状に連結することでひとつの音響生成システムを組成するというユニット・ジェネレータ的プログラミング環境は、どのような技術的・社会的・思想的文脈のなかで意味づけられ方向づけられ具体化され標準化されてきたのか、そしてその過程において音楽家としてあるいは音楽作品のなかで人間がどのように概念化されてきたのか。本発表は、20世紀後半にコンピュータという技術環境と急速に結合しはじめた文化における人間と技術の表象についてのひとつの理解を試みる。


ロバート・モリス《作られたときの音がする箱》における録音の意義
金子智太郎(東京芸術大学)

環境音の録音を作品とする、または作品の素材として利用するフィールド・レコーディングと呼ばれる手法は、現在も音による表現の実践のなかで重要性を増している。民族音楽の現地録音や生物音響学の録音資料、映像のサウンドトラックなどとは区別して、アートフォームとしてのフィールド・レコーディングを指すために、「フォノグラフィー」という言葉も使われるようになった。サウンド・アート研究者ダグラス・カーンらが提唱するこの用語は、フォトグラフィーとの対比を含意している。つまり、音楽ではなく写真を参照し、録音による表現のこれまで見逃されがちだった側面を探求しようという発想がこの用語に込められている。では、音楽を参照するときは見逃されがちだった側面とは何か。そのひとつに、撮影行為と対比された録音行為、つまり録音装置によって音を記録し、後でそれを再生するという行為自体をあげることができるだろう。

本発表はこうした近年の動向をふまえ、録音再生行為を表現の中心においた作品の古典として、ロバート・モリス《作られたときの音がする箱》(1961)に注目する。ミニマリズム彫刻、プロセス・アート、またサウンド・アートの文脈などで論じられてきた本作を、音を記録して再生する行為という観点からあらためて考察したい。制作風景を録音することを、プロセス・アートの先駆けとみなす解釈がこれまでなされてきた。それに対して、本発表はむしろ再生装置を箱に入れることに着目し、録音再生行為が制作から鑑賞までのプロセスのなかでもつ意義を問いたい。


ゲームはどのように「聴かれる」のか?──ビデオゲーム・オーディオの成立とそのリテラシー
山上揚平(東京大学)

モニタに視覚情報をフィードバックする形のコンピューターゲーム、いわゆる「ビデオゲーム」は、その黎明期から電子的音響を伴った視聴覚統合コンテンツであった。技術的制約により当初の音響は非常に簡素であったにせよ、ゲームと音響とを結び付けようとした試みは注目に値する。なぜならゲームデザインの中にサウンドデザインが当然の様に組み込まれるという事態は、恐らくはビデオゲーム誕生以降の新しい現象だからである。ゲームは二十世紀後半のエレクトロニクスを待って初めて、プレイに伴う音響を(音色の合成からという点で文字通り)ゼロから創り上げる事が可能となった。しかしながら、一体ゲームはどの様なサウンドを必要とするのだろうか?

本発表はビデオゲームの聴覚的側面を総体的に捉え、サウンドが(或いは沈黙が)ゲームデザインの要求に応じてどの様に新しい機能や意味を獲得してきたかを、古典的作品を例にとり検討していく。モニタの向こうに立ち現れる仮想現実や虚構世界の認識に聴覚要素はどの様に関わるのか。ゲームが本質的に要求する相互作用性や非線形性などの難題に「音楽」は如何に応えているのか。ここで提起される様々な論点は「作曲」側に新たな発想や方法論を要求するだけでなく、音響聴取の新しいリテラシーを獲得するという個々人の問題ともなるだろう。ゲーム体験の社会的共有がテレビやネットに比肩しつつある現代日本に於いてこの事が持つ重要性を考えたい。