第7回大会報告 パネル1

パネル1:身体の言語学―ダンスの現代性をめぐって|報告:江口正登

2012年7月8日(日) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1

身体の言語学―ダンスの現代性をめぐって

「残酷」の萌芽としてのニジンスキー
堀切克洋(東京大学)

土方巽から大野一雄へ――言語によるイメージの身体化をめぐって
宮川麻理子(東京大学)

コンテンポラリー・ダンスにおける「舞踊言語体系」の機能――ウィリアム・フォーサイスの場合
藤堂寛子(東京大学)

【コメンテーター/司会】石光泰夫(東京大学)

20世紀初頭のルドルフ・ラバンによるラバノーテーションの開発は、舞踊の運動がそれ固有の言語的構造を備えていること、すなわち、「舞踊言語」と呼ばれるべきものが存在していることの認識を明確にした。こうした前提に基づき、本パネルでは、舞踊あるいは身体、運動と、ノーテーションあるいは文字、言語との関係をめぐる三つの発表がなされた。

最初の発表者は堀切克洋氏。ヴァーツラフ・ニジンスキーとアントナン・アルトーとに通底する「象形文字」の思考を抽出し、これをモダニズム、またあるいは19世紀後半以降のフランスの知的風土という文脈の中に位置づけようとする発表であった。堀切氏はまず、『牧神の午後』から『遊戯』、『春の祭典』に至る、バレエ・リュスにおけるニジンスキーの一連の実験を検討し、舞台空間のすべてを幾何学的に様式化していく抽象化への志向をそこに見出す。続けて、ニジンスキーにおけるこうした舞台芸術の変質を規定するものとして、1880年代以降のフランスの知的・政治的状況について概観し、バレエを「象形文字」として捉えるステファヌ・マラルメの議論を参照しつつ、こうした象形文字的な作品への志向こそが、ニジンスキーとアルトーをつなぐものであると論じる。その上で、象形文字的な作品を記録するための、象形文字的な記録法の欠落、という問題が、アルトーにとっては解決不可能なまま残されたということを指摘した。本パネルの主題である「舞踊言語」の問題を、具体的な作品や技法の水準を越え、思想史的・文化史的パースペクティヴの中で思考することを可能にしてくれる発表であったといえるだろう。

続く宮川麻理子氏の発表は、土方巽と大野一雄の共同作業の仔細な検証を通じて、そこで土方によってなされた言葉=「舞踏譜」による振付、すなわち「言語によるイメージの身体化」のプロセスを明らかにしつつ、その可能性を探究するものであった。通常の舞踊譜は、音楽の楽譜がそうであるように、人工的な記号によって書かれるものであるが、土方の場合は、自然言語による一連の指示をして舞踏譜としている。さらに、通常のノーテーション・システムにおいては、動きが言葉あるいは記号によって記述され、場合によってはその記述からさらに動きが生成されるというのが基本的な流れであるのに対し、土方の舞踏譜の場合は、常に言葉から動きが生成される、すなわち言語と身振りの順序が逆転しているのが特異な点である。以上を踏まえて宮川氏は、こうした舞踏譜による振付がなされた作品『わたしのお母さん』(1981年初演)を取り上げ、複数の上演バージョンや創作ノート、往時の劇評などを参照しつつ、土方の言葉が、大野の所作を厳密に指示するものとして機能していたことを示してみせた。「言葉による振付」という特異な事例に着目しつつ、資料を丁寧に掘り起こすことにより、土方巽と大野一雄というとかく神話化されがちな暗黒舞踏の二大巨匠の協働の論理に明晰な光を当てた発表であった。

最後に発表した藤堂寛子氏は、クラシック・バレエともポスト・モダン・ダンスとも異なるコンテンポラリー・ダンスの振付の論理を、主としてウィリアム・フォーサイスのインプロヴィゼーション・テクノロジーを分析することによって明らかにすることを試みた。藤堂氏の整理によるならば、ダンスへの偶然性・不確定性の導入は、マース・カニングハムによって先鞭をつけられたものであるが、これをさらに推し進めようとしたジャドソン・ダンス・シアターの試みは、ダンスの構造性の露呈にのみ拘泥するあまり、身体-運動としての強度を失うという結果に至ってしまった。フォーサイスにおいては、むしろ、システム=統辞法によってインプロヴィゼーションを連続的に誘発しようとすることによって、このアポリアの乗り越えが図られる。こうした整理を踏まえ、藤堂氏は、フォーサイスのカンパニーにおける日本人ダンサー安藤洋子の特異な位置に着目し、フォーサイスのシステムに対する特異点として彼女が機能していること、システムの側では、そうした異質なもの・未知なるものに反応するための公式があらかじめ備わっていること、それによってフォーサイスのダンスのダイナミズムが生み出されていることを論じた。クラシック・バレエからコンテンポラリー・ダンスに至るまでを扱う構えの大きい発表であり、多少整理が図式的に感じられる部分もあったが、更なる議論のための有益な土台が提供されたように思う。

司会に加えてコメンテーターを務める石光泰夫氏は、三者の発表それぞれの詳細には敢えて立ち入らず、本パネルの全体に対して次のように述べた。曰く、ダンスの現代性という問題を考える際に、身体の言語学というような問題設定をしてしまうことはあまりに楽天的にすぎる、真に現代的なダンスは、言語的なもの、文字的なものを決定的に峻拒すべく格闘しているはずである、と。各発表の個別性を捨象してのコメントは、やや大掴みすぎるようにも思われたが、言語と身体の関係を語る上で必要な「覚悟」が欠落してはいないか、舞踊の運動に対して安定的に言葉=「学術活動」を積み重ねる体制を保持しようとするかの発表ではなかったかという根源的な問いは重要なものであるだろう(自身認めたように、これは石光氏一流の挑発的パフォーマンスであった)。これに対して堀切氏は、「限りなく運動に近い」という性質を持つ象形文字の特異性を指摘し、これを通常の意味での文字言語と直ちに同列に語ることはできないと述べ、宮川氏は、大野の舞踊をどう記述=言語化するかはいまだ進行中の課題であり、石光氏が批判的に想定するような「安定的な体制」は存在していないということを強調した。藤堂氏は、自らの発表におけるフォーサイス・テクノロジー=「統語法」の扱いは、あくまでテクニカルな、即物的なものであるとし、石光氏の投げかけた文字・言語的なものと身体との関係という問題設定とはひとまず区別されるべきものであると応答した。

発表者三名と石光氏の対立の解消しがたさが印象深かったためか、会場からの発言は、そこへの介入の意図が感じられるものが多かった。個人的には、ラバノーテーションなどを実際に学んだ人間がダンスを観る場合のパースペクティヴは、それを知らない場合のそれとはまったく異なるという発言が特に示唆的であった。言語的な体系の習得が、知覚に対して具体的に変容をもたらすという経験の認識は重要である。

ノーテーションという、ダンスそのものではなくその周辺的な装置を出発点とした本パネルは、であるがゆえにこそ、我々はダンスについて何を語ることができるのか、それはいかにして可能なのかという根源的な問いを一層強く引き起こすものであった。宮川氏が石光氏への応答の中で述べたように、ダンス=運動をどう言語化するかはいまだ開拓中の領域である。ダンスは絶対的に非言語的なものであるという、石光氏が恐らく自覚的に固執するほとんどドグマティックな立場は、確かに我々が常にそれとの緊張を失ってはならないものであるだろう。しかしながら、研究者である我々は結局のところ、分節言語に依拠して語るしかないし、その務めは、分節の網目をより細かくしていく――それは同時に、参照すべきコンテクストをより多数化していくことをも伴うわけだが――ということに尽きるだろう。ノーテーションでダンスを語りきることはできないだろうが、それがひとつの、豊かな――かつ論争的な――可能性をはらんだアプローチであるということを、本パネルは見事に示してくれたように思う。

江口正登(東京大学/日本学術振興会)

【パネル概要】

20世紀の「身体」への関心は、ダンスの歴史において「舞踊言語」をいかにして記述するかという問題と深く結びついている。もっとも、ボーシャン=フイエ記譜法(1700年)のように、運動を記号として記録する試みは古典主義時代にも見られるものだが、しかし詳細な動作まで記録することを可能にしたのは、20世紀前半のドイツの振付家ルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban, 1879-1958)による記譜法(ラバノーテーション)であろう。ラバン以降のダンス史において、「舞踊言語」とも言うべき、運動する身体の言語性への着目は絶対的に無視できないものである。こうした問題意識は、たとえば1950-60年代以降のアメリカにおけるポスト・モダンダンスの「スコア」や、同時代の日本に興った暗黒舞踏の源泉としての詩的イメージ、あるいは現代ドイツにおいてウィリアム・フォーサイス(William Forsythe, 1949-)が開発した「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」などへと継承されている。

本パネルでは、以上のことを念頭に置きつつ、ダンスにおける「言語としての運動/運動としての言語」が孕んでいる問題性を、フランス、日本、ドイツという三つの異なる状況から分析することを試みる。全く異なる文脈からの分析を並べ置くことによって、20世紀の表象文化の争点である「身体」が、身体芸術としてのダンスにおいて、いかなる問題を提出してきたのかについて考察することが、本パネルの狙いである。(パネル構成:藤堂寛子)

【発表概要】

「残酷」の萌芽としてのニジンスキー
堀切克洋(東京大学)

「残酷の演劇」で知られるアントナン・アルトー(1896-1948)がパリに上京したのは、1920年のことだから、彼がヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1950)の踊りを見た可能性は皆無であった。実際にアルトーの著作のなかにおいては、バレエ・リュスに関する言及こそ見られるものの、ニジンスキーの踊りについての言及は見られない。アルトーの「残酷の演劇」における俳優論・身体論の起点のひとつは、1931年の植民地博覧会におけるバリ島の「舞踊言語体系」の厳密なコード体系がもたらす効果であったが、そのような機械的な運動の肯定は、むしろ隣国のオスカー・シュレンマー(1888-1943)が実験的に生み出そうとした身体のあり方に近いようにも思われる。

しかし、決して出会うことのなかった両者(アルトーとニジンスキー)のあいだには、踊る身体が生み出す運動の象徴性の探求という点から見れば、きわめて類似した問題意識が認められるのではないか。このような問題意識の下で、本発表では、戦間期パリにおけるニジンスキーに関する言説を整理しながら、「残酷の演劇」における舞踊の位置づけと比較考量する。またさらに、最終的にそれが『演劇とその分身』(1938年)に代表されるアルトーの独特な身体論(「感性の体操」「セラファンの演劇」など)のなかで、いかなる演劇論へと結びついていくのかを明らかにし、同時代の舞踊と演劇の接近についても考えてみたい。


土方巽から大野一雄へ――言語によるイメージの身体化をめぐって
宮川麻理子(東京大学)

舞踏の創始者としてまず名前が挙がるのは土方巽(1928-1986)であり、その伴走者として大野一雄(1906-2010)も重要な位置を占めている。初めて共演した1959年の『禁色』以降、二人の関係は舞踏の発展の歴史を語る上で外せないものとなっているが、舞踏が形成されていった60年代が終わる頃から一定の距離を置くようになり、土方が再び大野の踊りに振付けとして参加するのは1977年の『ラ・アルヘンチーナ頌』以降のことである。また、ある時期を境に土方は踊らなくなったのに対して、大野は生涯現役の「ダンサー」であった。

土方は70年代以降、公演に際して弟子たちに振付けをする必要性から、膨大な動きのコレクションとしての「舞踏譜」の創作に着手した。ここでは、詩的な言葉や絵画から触発された言葉によってイメージを身体化する試みがなされたと言える。このような言語による振付けは、土方が1977年以降大野に対して行った振付けに際しても用いられた方法であるが、土方による言葉と大野の舞踏との関連性は未だ明確になってはいない。さらに、大野自身、作品の創作のために数多くの言葉を書き残している。


よって本発表においては、1977-85年の土方振付けによる大野の舞踏作品を中心に据え、詩的言語が引き出すイメージとその身体化を、大野の踊りの中に見出すことで、言語による振付けの可能性と、「身体化された言語としての舞踏」の意義を改めて考察していく。


コンテンポラリー・ダンスにおける「舞踊言語体系」の機能――ウィリアム・フォーサイスの場合
藤堂寛子(東京大学)

かつてルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban, 1879-1958)がダンスをスコア化しようとしたとき、そこで前景化したことは、いわば「舞踊言語体系」というべきものが、ダンスの思考(どのようなムーヴメントを生み出すかということ)を支配しているということであった。また1960年代アメリカで広く支持されたポスト・モダンダンスにおいては、「スコア(舞踊譜)」を操作することでダンスの新しいあり方を模索しようとする試みがなされ、それ以降のダンス制作において、「舞踊言語体系」を問題の中心に据えることを、避けて通れないものとしたのであった。

たとえばウィリアム・フォーサイス(William Forsythe, 1949-)は、伝統的なクラシック・ダンスに内在していた、ムーヴメントを実践するその度ごとにもとの「舞踊言語体系」が揺るがされ、変化を蒙るという事態に着目し、これをモデルにした「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」を開発した。この「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」は、いまやクラシック・ダンスを脱構築することからはなれて、「振付家ウィリアム・フォーサイス」のムーヴメントを脱構築するという次元で駆動している。

本発表では、コンテンポラリー・ダンスにおける「舞踊言語体系」が、これまでいかなる過程を経ることによって、いかに現在のように機能するものになっているのかということについて、主に1960年代ポスト・モダンダンスと、ウィリアム・フォーサイスの仕事に依拠することで検証することを目的とする。