研究ノート 藤田 瑞穂

イリヤ・カバコフ「彼らはのぞき込んでいる」をめぐって
藤田 瑞穂

「彼らはのぞきこんでいる」(1999)は、名古屋市中区の白川公園噴水広場の地面に設置されたモニュメントである。「彼ら」は地面の奥にある何かを「のぞきこんでいる」のだが、奥に進むにつれどんどん暗くなるはずの地面の中は白く残されている。

カバコフによる作品解説には、次のように書かれている。「この作品には、柵ごしに体を乗り出してじっと下を覗きこんでいる少年たちが描かれています。私たちは彼らの後ろ姿を見ているわけです。どうやら深い井戸でも覗きこんでいるようです。中は真っ暗なはずです。ところが、彼らがじっと見入っているのは “白”なのです。本来はこの“白い”完全な明るさは、下の方ではなく上を見ていなくてはならないはずですね。このパラドックスは、この作品を見る人たちに向けられた謎掛けのようです。――『下を見ながら空を見るとはこれいかに?』この作品の謎を解くことは、悟り――突然の閃き――を得るために禅僧が弟子達に与える公案を解くようなものなのです」

また、この作品は「十の人物(アルバム)」(1970−74)を構成する一つの作品である「装飾師マルィギン」を下敷きにして制作された。そこには、会議資料などの余白に絵を描き続けていたが、いざ白紙を前にすると、どうしてもまん中には絵が描けなかったという男の物語が描かれている。これまでカバコフはたびたび、“白”は非常に強い力をもつものだということを作品中で、またテクストによって主張してきた。カバコフは「十の人物(アルバム)」と同様の形式で、1970年代より「アルバム」と呼ばれる、いくつかのドローイングからなる一連のシリーズ作品をいくつも制作したのだが、この頃から既に“白”が重要な役割を持っていた。カバコフは、枠によって白い画面を区切ることが「空間の端を示す」ことを表すと言っている。すなわち白い画面を空間だと考えているのである。そして、枠によって区切られた作品は、光を届ける空虚な空間として語られる。その中で、「図像が光の中を漂う」「平べったい障害物がこの光をぼんやりと曇らせ、遮断する」というのだ。つまり、光は透明なものとして存在するのである。平面に描かれた図像は、この「光の中を漂う」ことによって、立体性を帯びるとも考えることが出来るだろう。つまり、一つの平面の上にありながら、奥行きが生じるということである。ゆえに「彼らはのぞきこんでいる」では、「彼ら」は、画面の中に奥深く広がった白い空間を「のぞきこんでいる」のだと考えられよう。枠で光の作用する空間を作品の中に取り込むことによって、画面の中に透明で空虚な白い空間が呼び込まれるのである。

そしてこの透明さは、それが透明であるがゆえに、鑑賞者に想像の余地を残す。奥から溢れ出る透明な白い光をのぞきこんでいる「彼ら」は、いったい何を見ているのか。「装飾師マルィギン」には「彼らはのぞきこんでいる」と同じ構図のページが存在するのだが、それと対になるかのように、白い背景が奥に見える淵から、こちら側をのぞきこんでいる人々の描かれたページがある。白い空間をのぞきこむ「彼ら」はまた、白い空間からこちらをのぞきこむ「彼ら」でもあるのだ。白い光は枠に区切られた画面の奥からやって来て、こちらからもまた白い光が枠の外をめがけて射す。外から中へやってくる白い光を取り込み、中から外へ放出する。そういった、真逆の方向へ打ち返すという往復運動が、“白”の空間を多層なものとしていくのである。そうして出来た透明な白い空間に、鑑賞者は様々に想像をかき立てられ、またそれに触発されて個々の記憶を呼び覚まされながらそれを見つめることであろう。そのまなざしがまた、白い空間に光の層を成す。空間は鑑賞者の数だけその想像と記憶を蓄えながら、その深みを増してゆく。ゆえにカバコフは「見つめる」ことをテーマの一つとしてインスタレーションを作り続けるのだ。

「彼らはのぞきこんでいる」は今日もまた、日の光を受けながら白い空間を示してそこにあり続け、カバコフの作り出した多層な空間が見つめられるたびに、「彼ら」はそのまなざしの行方をずっと見守っている。

藤田 瑞穂(京都芸術センター/大阪大学)