PRE・face

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小林康夫

岡田会長のご尽力により京大・人文研からはこんできた年期の入った黒光りする立派なテーブルの上に伝・小野洋子・作ということになる白いチェスボードと白い駒が並べられていて、さあ、みなさんの前で一勝負、森村泰昌さんとわたしの対話とあいなった。

これは、二年前ほどだったか、東大・駒場の駒場博物館でデュシャンの『大ガラス』の前で作品制作していたときに、現場に立ち寄ったわたしが、頼まれてチェス盤を前にしたデュシャンとなり、向かいは森村さんがあの伝説的な裸身の女性として降誕してきていた、わずか一瞬のゲームの再演ということになる。いや、それだけではなくて、考えてみれば、森村さんとは、駒場の900番講堂にマリリン・モンローが降誕するのをいっしょに仕掛けたときからずっと、お会いするときはいつも「勝負」であったような気がする。駒場のマリリンのときも、わたしはたしかマリリンの言葉を編集して「風のマリリン」だったか、テクストをつくったのではなかったか。森村さんがそれをテープに吹き込んでくれたように思うのだが、記憶ははっきりしない。※1 その翌年には、横浜美術館で森村さんの大規模な展覧会があって、そのカタログにわたしは「ギ・装置Mの降誕祭」という論を寄せたが、この「M」、つまり「森村=マリリン=(それにいまでは)ミシマ」はその後、森村さんのひとつの「名」となった。

いや、このようなことを書いたのは、この夏の京都での「勝負」が、十数年に及ぶ、散発的ではあるが、しかし持続的な「勝負」のセリーのひとつであったことを強調しておきたいからだ。すなわち、すでに開始されているゲームの展開の一局面なのだ。このこと——つまりひとりの創造者とともに、同時代的な「対話」を継続的に行うということ——は、「表象文化論」という名で示される奇妙なアクティヴィティにとっては決定的に重要だということ、しかもとてもありがたいことだと、わたしはここで言っておきたいのだ。

森村さんとわたしは同世代。マリリンまではどこにも接点はなかったのだが、振り返ってみれば、同じ「日本の戦後」を生きてきて、同じようにそれに傷つけられてもいる。最近の森村さんの作品がますます日本の歴史を問う方向に向かって先鋭化しているということもあるが、このところわれわれの「勝負」は「日本の戦後」というチェス盤の上でこの歴史をどう「詰める」か、あるいはどう「引き分ける」か、という問題を解こうとしているように思われる。「勝負」の敵は相手ではなく、このゲーム盤なのだ。

だが、その間に、3月11日の地震は起こった。

すべてを押し崩して運びさったこの災厄を思えばこそ、――これは圧倒的にアーティストとしての森村さんの大胆不敵の「一手」であったが――—われわれは「勝負」の最後、盤上の駒をざらざらと崩して舞台にぶちまけることをしないわけにはいかなかった。観客のみなさんがどうご覧になったかはわからないが、信じてほしい、手が大理石の瀟洒な駒をなぎ倒し、床にぶちまけるときに、わたしの心を一筋の痛みと悲しみがつらぬかなかったわけではない、と。

Echec (チェス=失敗)――だが、それでもゲームは、つまり歴史は続いていくのだ。


※1 この経緯は、わたし自身が『大学は緑の眼をもつ』(未来社)所収のエッセイ「Mの降誕」で書いているのを見つけた。風の音まで入ったテープを当日みなさんに聴かせたようで、わたしは勝手にこれが後に森村さんが「映画」をつくりはじめるきっかけになったと信じている。

小林康夫(東京大学)