第5回研究発表集会報告 パネル3

パネル3

2011年7月3日(日) 14:00-16:00
京都大学総合人間学部棟

パネル3:デリダと来たるべきデモクラシーの問い──『ならず者たち』をめぐって

民主主義の不可視なる「敵」──デリダにおける自己免疫の政治
宮﨑裕助(新潟大学)

民主主義の自己免疫とその反転──残虐性なき死の欲動をめぐって
佐藤嘉幸(筑波大学)

デリダによる超越論的病理論──カント、フッサールを導きの糸とするデモクラシー再考
長坂真澄(京都大学)

【コメンテーター】鵜飼哲(一橋大学)
【司会】佐藤嘉幸(筑波大学)

「9・11」以降、米国による対イラクの攻勢が激しくなるなかで、米国政府によって名指されていた「ならず者国家 voyous 」という形象はますますその存在感を強めていった。2004年に没したフランスの哲学者ジャック・デリダがその死の1年半ほど前の2003年に発行した著作『ならず者たち』は、こうした情勢を受けて書かれた民主主義論であり、晩年のデリダのアイデアが凝縮した形で散りばめられている。本書の日本語訳が出版されたのは2009年のことだが、その内容はいまだに学問的な場において検討を受けたことも少ない上に、フセインの死後「民主化」されていくイラクの過程とともに――そしてとりわけ、デリダ本人の死とともに――忘れられていきつつあるような印象さえ受ける。きわめて高い実力を備えた三人の論者によって構成された今回のパネルは、そのような情勢に批判的な眼差しを据えながら、今一度、デリダが残した民主主義論を、『ならず者たち』という著作を中心に見直そうとする企画であった。奇しくもそれは「自己免疫」と「病理学」という、デリダが残したこの二つの医学的な概念を招来する機会ともなった。このこと自体が、かくも合理的な現代が振りまき続けている「病=悪 mal」を反映しているのではないかとも思えるが、まずは各発表の概要を見ておこう。

宮﨑裕助氏(新潟大学)の発表は「民主主義の不可視なる「敵」—―デリダにおける自己免疫の政治」と題されていた。宮﨑氏はデリダが投じた「来たるべき民主主義」という概念に関して、民主主義という概念の原義・本義にまで遡りつつ、デリダの概念を「自己免疫的民主主義」として考え直そうと試みる。デモクラシーの語源の一つである「デモス demos」のなかには人民と車輪という二つの概念的源泉が見いだされる。すなわち、民主主義という多数支配による体制は、抵触する諸概念を「輪番」的に導入することで、その矛盾を回避しつつ保持され続けるということを意味している。矛盾の繰り延べ、すなわち将来的な自己矛盾の解消として考えられる現行の民主主義は、それゆえ本質的にはつねにすでに「来たるべき民主主義」と見なされうる。デリダはこの未来投企的な自己更新システムを「自己免疫的」と名付ける。そもそも「免疫 immunis」とは宗教的用法と法律的用法の両者に関わる語彙であって、デリダはこの語のなかに両者を批判しつつ結びつける機能を託したのだと宮﨑氏は言う。それは信(宗教)と知(=テクノロジー)との結びつきを更新するものであり、具体的にはそれは人民主権の政治神学的基盤とメディアによる「敵」の上演という二つの要素に関わっている。宮﨑氏は今回の発表で後者に重点を置き、民主主義とはメディアによって不断に行われる敵の可視化のプロセスであり、それはその幽霊=影としてある不可視のテロリストの絶対的脅威と不可分であると述べる。これが民主主義におけるひとつの自己免疫性であり、最終的に宮﨑氏は、こうした民主主義の構造を見据えた上でデリダが述べる「生を別様に思考する」可能性を考える必要があると結論づけた。そこでは解きほぐされたデモスのもとで主権なき人民たちが営む来たるべき民主主義の核心が、生・情動・無意識といった概念へと託されたように見える。

二番目の発表者である佐藤嘉幸氏(筑波大学)は「民主主義の自己免疫とその反転――デリダにおける残虐性なき死の欲動をめぐって」というタイトルの発表を行った。佐藤氏は最初に『ならず者たち』のなかから、民主主義自体が民主主義を自壊させる契機を呼び込む要素を持っているという指摘を強調し、とりわけ9・11以降のアメリカ合衆国が「ならず者国家」化した点を指摘しながら、それを民主主義の自己免疫化として提示する。佐藤氏の解釈によれば、この自己免疫性は死の欲動と結びつく。自己の自己性そのものを傷つけるこの論理は、文字通りの自傷・自殺的なものであり、それは無意識におけるタナトス的構造が政治的なレベルで可視化したものにほかならない。佐藤氏によれば、デリダは”Etat d’âme de la psychanalyse”内で、快/不快、生/死の欲動の二項対立の彼岸にある境位を志向している。この射程を政治論に適用するならば、国家における権能 pouvoirが自己の自己性 ipséitéから発して自らを現実化させていく際、それのアンチテーゼである残虐性を生起させることなく、その彼岸にある審級を志向できないだろうか、という仮説を作成できる。これこそが来たるべき民主主義の射程であり、この「彼岸」において、無条件的な実践としての歓待・贈与・赦しが問われねばならない。佐藤氏はこの審級を「残虐性なき死の欲動」と名付け、新しい民主主義と国家間秩序の確立へと適用しようとする。無条件的な実践の射程を――たとえ招き入れた客によって自己が脅かされざるを得ないという事態を招来し得ないとしても―—自己免疫のポジティヴな側面として現実的に考えること、佐藤氏が『ならず者たち』を起点に提出したテーゼは、以上のように要約できるだろう。

三つ目の発表は長坂真澄氏(京都大学・ヴッパータール大学・トゥールーズ大学、博士課程)による「デリダによる超越論的病理論――カント、フッサールを導きの糸とするデモクラシー再考」。『ならず者たち』においてデリダが広く依拠しているカント、フッサールの思想を精査した上で行われたこの発表において、長坂氏もまた「自己免疫性」という概念に焦点を絞る。デモクラシーに内在する暴力性が理性の内なる病として記述される『ならず者たち』の論理体系において、フッサール、あるいはカントとの差異はどの点に見いだされるのか。長坂氏はこの差異が「来たるべきデモクラシー」の非実在性に由来すると考え、統制的理念、計算可能性といった概念との関連から、デリダのデモクラシー論の独自性を導きだそうとする。長坂氏によれば、そもそも理性を超出するものの可能性はカント哲学における理念の位相に端を発するものであり、そこではすでに計算可能なものに対する計算不可能なものの優位が確立されている。計算不可能なものの優位はしかし、どのレベルで証明されるのだろうか。カントの枠組みでは処理できないこの問題はフッサールにまで続いている。フッサールにおける「厳密さ/精密さ」の区別もこの無根拠な前提に基づいたものであり、その結果、「精密さ=理性の一面的な使用」に基づく誤謬は、理性の内なる病として承認されるほかない。デリダはまさにこのプロセスにおいて客観主義という病が分離され特定されたのだと指摘する。分離的生成がもたらすこの「衰退」こそが理性の根源的な病であり、デリダはこの根源的な構造に抗すべく、「来たるべきデモクラシー」の名のもとで還元不可能な剰余の無限連鎖を試みているのだ、と長坂氏は論ずる。仮象ならざる仮象、「準-超越論的錯覚」と呼ばれるこの地平が、カント−フッサール的アポリアを解消すべくデリダが提示した処方であり、それこそが自己免疫の本質、すなわち理性への信を揺るがす無限の地震にほかならないと結論づけられる。

これら三つのきわめて強力な解釈に対して、本パネルのコメンテーターであり、『ならず者たち』の翻訳者の一人である鵜飼哲氏(一橋大学)はどのように応じたのだろうか。1984年から1989年までデリダのゼミに出席していた経験を持つ鵜飼氏は、デリダ自身が民主主義と脱構築との間にある種の類縁性を認めていたということを証言する。問題となるのは、そこで使用された「民主主義」という語が含意するものだ。鵜飼氏は民主主義の原則が“Yes, we can”、すなわち「できること」に存すると述べ、デリダが志向したのはこの「何かができる(何かについての権力がある)」という地平の外部にある民主主義、いわば「可能であるとは別の仕方で」機能する民主主義ではなかったのかと指摘する。すなわち、デリダは民主主義を「更新」したかったわけでもなく、民主主義を「乗り越え」たかったわけでもなかったのであろう、と。鵜飼氏はデリダと民主主義に関するこのような考察から始めて、現在のアメリカが次々と「民主主義の敵」を――個人レベルで――特定し、それによって同時に自己の主権を立ち上げて続けているということを総合的な状況として言及している。鵜飼氏のコメントは一言一言が明晰な理解と時代に則った正確な状況判断に基づくものであったが、すべてを再現することは断念して、ここでは各発表者に質問として提出された以下の点だけ述べるにとどめよう。1)今回の宮﨑氏の発表における「敵=ならず者国家」概念は、『友愛のポリティクス』におけるカール・シュミット批判内での「敵」の論理とどのような関係をもっているのか。2)民主主義は何であれ主権を必要とするものだが、佐藤氏が提示する「残虐性なき死の欲動」は、そのような意味で民主主義の条件と見なしうるのか。主体とその「暴力=残虐性」が不可分である以上、民主主義はそれなしで済ますことはできないのではないか。3)最後に長坂氏に対しては、『ならず者たち』の正式な副題が「理性論二篇」であることを指摘しながら、カント=フッサール的な意味においては理性とは合目的的なものであり、専門化=細分化が「危機」の原因であると見なされるのだが、デリダは理性の細分化そのものに「革命」の可能性を見いだしていたのではないか。

会場からの質疑も加えて、これに続く応答や議論のすべても掲載したいが、このあたりで筆を置くことにしよう。最後にひとつだけ私見を述べることを許していただきたい。現在の日本の(とりわけ原発関連の)状況から考えてみると、「国家」と「国民」が完全に分離し、「国家」は「民」に対して暴力的かつ抑圧的な環境施策を投じているだけの様に思える。この状況を「民主主義」の悪しき到来様態と捉えるべきなのか、それとも、この国では未だ「民主主義」など来た試しがなかったと考えるべきなのだろうか。イントラナシオナルなレベルで作動する国家の「ならず者性」を、「民主主義」「敵」「理性」などのターミノロジーで考えることは可能なのだろうか。果たして今遂行されている数々の出来事は、「民主主義の敵」なのだろうか。

会場に満ち満ちた聴衆に対してきわめて深いレベルからの考察がなされた今回のパネルは、あらゆる方向におけるアクチュアルな問いかけを含んだ近年まれに見る有意義な機会であったように思える。パネル組織者、参加者の方々には貴重な機会を提供してくださったことに大いに感謝したい。今回提示された数々の問題提起が、様々な仕方で深められ接ぎ木され散種され、新たな機会として進化し浮上せんことを心より願う。

大橋完太郎(神戸女学院大学)

【パネル概要】

デモクラシーとは民主主義と訳されるように、統治のための意思決定を人民全体で行うような政体のことである。しかし、代表制民主主義という形態の下で行使される国家主権は、その根源的な暴力性を恒常的に顕わにしている。例えば、アメリカ合衆国は、2003年に開始されたイラク戦争において、「ならず者国家」(「テロ支援国家」の意味)イラクの民主化(democratization)を標榜し、そうした「民主主義的な」理念の下に、イラクの国土と統治機構を徹底的に破壊した。本パネルでは、「民主主義」と切り離しがたい仕方で現前するこのような国家主権の根源的な暴力性と、その変容可能性を、ジャック・デリダが「来たるべきデモクラシー(démocratie à venir)」という概念を練り上げた一連の政治的著作、とりわけ『ならず者たち』、さらには同書の最重要概念である「自己免疫」の問いから出発して考察する。

本パネルにおいて、デリダから出発して私たちがとりわけ問題にするのは、民主主義という政体が保持する主権の暴力性、また、それと切り離し難い形で存在する資本主義の暴力性、そして、それら暴力性の変容可能性(「来たるべきデモクラシー」概念の射程)である。(パネル構成:佐藤嘉幸)


【発表概要】

民主主義の不可視なる「敵」──デリダにおける自己免疫の政治
宮﨑裕助(新潟大学)

「来たるべきデモクラシー」は、90年代以降、積極的に政治的な主題を論じるようになったデリダの著作にとって、一種のスローガンのように機能してきたフレーズである。長らく問題含みであり続けてきたこのフレーズは、デリダが死の一年前に発表した『ならず者たち』(2003)において、はじめて中心的な主題として議論の俎上にのぼせられるにいたった。

デリダは本書のなかで、民主主義が自由と平等の狭間で陥らざるをえないパラドックスに、ひとつの自殺的論理を指摘している。デリダはこれを「自己免疫(l’auto-immunité)」と呼んでいるが、この生政治的形象は、「来たるべき民主主義」にとっていかなる意味をもつのだろうか。

他方、9.11以降の「対テロ戦争」が特徴づけているのは、「敵」(ならず者)の潜在化と遍在化という事態である。「敵」の不可視の拡散は、民主主義を制限するような国家主権の回帰を促す一方、メディアを背景とした民衆的情動の波及をますます制御不可能にする。民主主義の新たな試練として課された「敵」の政治は、「来たるべきデモクラシー」の課題をどのように描き出すのであろうか。 

本発表では、以上のような問いを立てることによって、デリダが最晩年に展開しようとしていた政治的思考の可能性を探ってみることにしたい。

民主主義の自己免疫とその反転──残虐性なき死の欲動をめぐって
佐藤嘉幸(筑波大学)

デリダは『ならず者たち』の中で「自己免疫(auto-immunité)」という概念を導入し、民主主義の持つある種のパラドックスについて分析している。自己免疫とは、自己に対する侵害から自己を保護するために、自己そのものを破壊してしまうという逆説的な過程である。この概念によれば、民主主義は、「民主主義にとってよいことのために」、民主主義の理念そのものを停止してしまうことがある。こうした考えに従って、例えば、9・11以後のアメリカにおける「民主主義」や「対テロ戦争」について考えることもできるだろう。

ところが、さらに逆説的なのは、デリダが、こうした民主主義という政体の自己性、自己権力性、あるいは「自権性(ipséité)」(その範例的な形象は「主権」である)の論理を乗り越えるために、再び「自己免疫」という概念を持ち出していることだ。私たちが別の場所で「残虐性なき死の欲動」と名づけたこの「自己免疫」は、いかにして主権に固有な「自権性」を乗り越えることができるのだろうか。私たちはこのような「自己免疫」に関する問いを通じて、デリダにおける「来るべきデモクラシー」の射程について考察してみたい。

デリダによる超越論的病理論──カント、フッサールを導きの糸とするデモクラシー再考
長坂真澄(京都大学)を告げるその兆候的側面を明らかにしたい。

理性の必然的な機能障害ともいえる超越論的仮象の問題を浮き彫りにしたカントと、啓蒙的な理性称揚の帰結でもあるヨーロッパの危機を訴えたフッサール。デリダが『ならず者たち』において、その危機とは異なる「地震」がグローバル化の姿をとって今このとき起きていると警告するとき、彼の考察が再び遡るのは、このフッサール、そしてカントへと向かってである。

この両者の超越論的観念論の差異について敏感だったデリダは、すでに50年代から、カントにおける統制的理念を現象学の概念として独自に用いるフッサールの「カント的意味における理念」に注目してきた。理念を産出する働きは「理念化」と呼ばれるが、理念化は無限の課題としての超越論的目的論を自覚せしめる、すなわち「健康」へと向かわせると同時に、客観主義という理性の「病」へと導く当のものでもあることをフッサールはわれわれに教える。それは理性に内的な病、自己免疫疾患にほかならない。

フッサールの病理論的な比喩を受け継ぎながら、かつそれをグローバル化の中に置きなおしてデリダが向き合うのは、こうした理性そのものの暴力にほかならないが、暴力は超克されるのではなく、暴力そのものの危険によって「来たるべきデモクラシー」の今ここにおける可能性をあらわす。本発表はこうして、デリダの「来るべきデモクラシー」の理念を、カント、フッサールの導きのもとに捉えなおし、両者の批判的継承として提示する。