第6回大会報告 「〈ペルソナの詩学〉再論──プロソポンから森村泰昌まで」

「森村泰昌とペルソナの表象文化論」
第I部 「〈ペルソナの詩学〉再論──プロソポンから森村泰昌まで」

報告 : 柳澤田実

2011年7月2日(土)
京都大学百周年時計台記念館大ホール

【コメンテーターによる提題】
・〈ペルソナの隠喩〉再論/岡本源太(京都造形芸術大学)
・能面のペルソノロジー/横山太郎(跡見学園女子大学)
・関係性の実在論──享楽の自存性としてのペルソナ/信友建志(龍谷大学)
・パラマウンド paramound──盛り上がって、ズレること/千葉雅也(日本学術振興会)

【司会】
日高優(群馬県立女子大学)

何にでもなれるわけではない、という「時代」

かつて「私」が「かけがえない何か」であることに固執した時代があった。次にそのような思想に嫌悪感を持った者たちが違和感を表明し始めて、「私」とは何ものでもなく、むしろ「何ものにも成りうる」他者に開かれたものなのだと主張した。さらに、そのような観点で哲学史を振り返るならば、「私」を「かけがえない何か」であると考える立場は決してマジョリティーではないことも分かってきた。ペルソナという概念を巡る18・19世紀から20世紀、そして今日に至るまでの議論の流れは概ねこのように要約できると思う。

本ワークショップでは、4人の登壇者によって、古代ギリシャ・ローマから近世ヨーロッパ(岡本源太氏)、和辻哲郎から坂部恵のペルソノロジー(横山太郎氏)、ドイツ神秘主義からフロイト(信友建志氏)、そして現代思想から森村作品(千葉雅也氏)という四つの地域・時代区分に分かれて、このペルソナ概念の思想史的な展開が確認された。手際よく整理された個々のプレゼンテーションによって明らかになったのは、ペルソナという概念が「かけがえない個々人の固有性として人格」という意味を担ったのは近代の極めて限られた文脈においてであって、むしろ長きに渡って、他者への変容可能性・置換可能性、あるいは他者との関係性そのものを含意してきたという事実である。岡本氏が適切に示したように、可塑的で流動的な、様々な他者へと開かれた空隙としてのペルソナは、キリスト教神学の三位一体論においても見出されるのである。

ペルソナというこのあまりにも人口に膾炙した概念を掘り進むことで、プレモダンとポストモダンが通底する。横山氏、千葉氏が参照していた、他者への生成変化devenirを提唱したドゥルーズが、いみじくもライプニッツら18世紀以前の思想家に多くインスパイアされたように、どうやら認識論が全面化したカント以降の時代こそが特異だったのであり、19世紀以前の思想哲学と19世紀的なパラダイムを批判したポストモダン思想には自ずと共通点が多いのだった。

しかし、話はもちろんこのように単純な図式に尽きるものではない。提題後の各パネリストのコメント、そして何よりもこのワークショップに引き続く森村泰昌の作品は、「私」が「何ものでもあり得る」というポストモダンのオプティミズムではどうやら終われそうもない、という今日の思想状況を浮き彫りにしていた。千葉氏の整理によれば、このようなドゥルーズ=ガタリ的な楽観主義を批判し、様々な他者への生成変化の基底にある有限性や身体に注目する立場が既に登場しており、それはカトリーヌ・マラブーらに代表されるポストポスト構造主義ということになるらしい。まさしくこの思想史的展開と同調するかのように、ワークショップの最後には、抽象的なペルソナ論を森村泰昌の作品に繋げるにあたって、パネリストの多くが、他者へと変形されつつもなお決して消滅しない森村の肉体に眼差しを向けていたのが印象的だった。

「何にでもなれる」という気分でいたところで、現実的には自分の身体を一生懸命こねくりまわして変形させるしかない。リアリズムを生きていれば、あたりまえのことだ。問題は、それを主張することによって、ポストモダンの逆切れ的楽観主義の次に、私たちが何を生きようとしているのかである。横山氏が紹介した無や否定性を中心に置く坂部的なメランコリー、信友氏が示したような自己の不気味さを発見したフロイト的なメランコリー。これらに代わる一体何がありうるのか。欠如に基づくメランコリーの論理に距離を置こうとする千葉氏は、あくまでドゥルーズ的に、森村の作品をナンセンスな充実(=paramound(千葉氏による造語))として読解していた。

ワークショップの後には、他の作品とともに未だわずかな機会にしか上映されていないという、森村泰昌が大野一雄になった映像作品が上映された。体育大学出身の実は相当に体育会系の肉体を持った大野一雄になろうとすることで、森村の華奢な兎のような肉体はかえって際立つ。この肉体の持つ悲しさと滑稽さと美しさを表現するに足る概念はあるのだろうか? 「かけがえのない何か」であるわけではないが、かといって何にでもなれるわけでもない、というこの私たちの時代の生を語るために、もはやペルソナに代わる概念が必要とされているのかもしれない。

柳澤 田実(南山大学)

撮影:山内朋樹