第5回研究発表集会報告 パネル2

パネル2

2011年7月3日(日) 9:30-12:00
京都大学総合人間学部棟

パネル2:逃れゆく〈声〉の表象──音楽と言葉の狭間、行為としての〈歌〉を問う

物質的な声、身体的な呼吸──モーリス・ラヴェル〈ため息〉における象徴主義
高山花子(東京大学)

儒家言語論における〈声気〉と〈身体〉──戴震と皆川淇園
岩根卓史(立命館大学)

歌の起源、言葉の起源──中世後期における歌の生得性についての問
関沢和泉(パリ第七大学)

ミュージックヴィデオにおけるリップシンクの《自然さ》の獲得についての一考察
白井雅人(上武大学)

【コメンテーター/司会】竹内孝宏(青山学院大学)

役割分担を異にする「同業者」が集まって、おたがいの成果を確認し合うのも学会なら、それこそ「他者たちの交通の場」を開き、放っておいたら発生しようのない出会いを誘発するのもまた学会である。そして、「声(による表象)としての歌」をとりあえずの主題とするこのパネルは、まさにそうしたプロセスを経て成立したものであった。まずはそのことを素朴に喜びたい。

それぞれの発表については要旨が再録されるので、ここではだた、僭越ながらセッションの司会とコメンテイターをお預かりした者として、ごく簡単な備忘録を書きとめておくだけにしておく。

高山花子氏は、モーリス・ラヴェルの声楽作品《ため息》の、とくにその後半部分に「歌い手の歌の身体性」が顕在化するという主張を展開し、さらにそれがラヴェルの後期声楽作品に散見されるノイズ的な声の使用にまでつながっていくという見通しまでをも同時に示された。

関沢和泉氏は、西洋中世哲学の言語理論における言語と文法の「生得性」(ダキアのボエティウス)という問題について、それが当時の知的文脈においてはほとんど異端的な思想であったということ、しかし音楽(学)の領域においては文法学ほどのスキャンダルにならなかったということを、詳細な文献資料にもとづき論証された。

岩根卓史氏は、18世紀の中国思想(戴震)と日本思想(皆川淇園)における「声」の概念に注目された。戴震が、象徴学としての易学の流れのなかで、「声」を時代を超えた普遍的現象として理解したのに対し、皆川淇園は「声」を文字との不可分な関係性から把握しようとしたというコントラストがそこから浮上する。

白井雅人氏は、PVにおけるMTV以前と以後という歴史的切断を実例にもとづいて確認し、とくにいわゆる「口パク」の観点から、それぞれの時期の特徴を概観された。そこには同時に、「口パク」が誘発する/しない違和感の根拠をめぐる原理的な考察までもが含まれる。

これらの発表は、「行為としての歌」の発生を2つの異なるシステムのズレに見出そうとしているように思われる点で、共通しているとはとてもいえないまでも、同じ問題を共有しているということはいえそうである。たとえばそれは音楽と詩のズレであり、直接的な経験と反省的な「学」のズレであり、宇宙と人間のズレであり、映像と音声のズレであるだろう。そこにパネルがパネルとして成立しうる根拠があるということを、コメンテイターとしては指摘してみたかったのだが、あまり上手に伝わらなかったかもしれない。しかし、それをきっかけにフロアーから、「テクノロジーの差異」と「文化の差異」という座標軸を導入するべきであっただろうというご指摘をいただくことができた。このコメントこそ、パネルそのものにとって最大の幸福である。

竹内孝宏(青山学院大学)

【パネル概要】

古代から、音楽と言葉、とりわけ詩との関係性については、数えきれないほど膨大な議論が繰り広げられてきた。西欧の哲学を振り返ってみれば、国家からの詩人の追放を説きながらも魂と身体のための音楽教育の重要性を主張したプラトン、「最初の話し言葉が最初の歌だった」(『言語起源論』)という考えから、歌と言葉を分離するとして和声を批判したルソー、「言葉が音楽を模倣する」(『悲劇の誕生』)と音楽の優位性を書いたニーチェなど、枚挙にいとまがない。

しかしながら、人間の肉声による〈歌〉の現前は、芸術作品としての声楽曲やオペラだけでなく、教会音楽、仏教儀式における声明、民謡、教育の場におけるschool songや唱歌など、多様な形を取りながら古今東西を横断し、変遷しながら存在している。時にそれが音楽と言葉の融合であると言い切ることすらも適わない、両者のどちらにも属しながら属さないアンビバレントな存在として、〈歌〉は我々の定義・解釈・同定から絶えず逃れ続けてきたといえよう。言葉にも音楽にも回収不可能な何かを、〈歌〉は〈声〉により表象しているのである。

本パネルでは、〈歌〉が人間の身体からを発せられた〈声〉であり、〈声〉を空間に響かせる行為であるという視点も用いながら、音楽学や文学といった領域による〈歌〉研究の方法論を問い直し、逃れゆく〈声〉の表象へ接近することを目標とする。(パネル構成:高山花子)


【発表概要】

物質的な声、身体的な呼吸──モーリス・ラヴェル〈ため息〉における象徴主義
高山花子(東京大学)

フランスの作曲家モーリス・ラヴェル(1875-1937)は、多様なテクストを題材として生涯で数十曲の声楽作品を残している。なかでも、1913年に作曲された室内楽伴奏による歌曲《ステファヌ・マラルメの三つの詩》は、音楽評論家ロラン・マニュエルをして「メロディーの解放」と言わしめ、特に第1曲〈ため息〉は、スコアを見ただけでは独唱パートであることを見分けがたいほど詩句の1音節に対して与えられた音価が大きく、時に器楽的であるとも評される作品である。母音の響きすらも失われるほど引き伸ばされた声楽部分の旋律においては、まさに言葉や音節が物質として純化されているようであり、マラルメに寄り添っていると言えよう。

しかしながら、〈ため息〉において、詩の構成に対応するように間奏によって隔てられた後半部では、独唱部分の音域は狭まり、休符を伴う八分音符主体の旋律が目立つようになる。声は言葉の音楽性を掬い取れないまま低音を彷徨うかのようである。そして、陰鬱な詩情を旋律によって反映しつつも、そこに生々しく立ち現れるのは、呼吸する身体的な声である。  

本発表では、〈ため息〉の分析を通して、ラヴェルの声の表象と象徴詩の声楽作品化の可能性を問い、言葉が具体的な声として現前するあり方に光を当てることを試みる。

儒家言語論における〈声気〉と〈身体〉──戴震と皆川淇園
岩根卓史(立命館大学)

「人の心の動くは、物これをしてしからしむるなり。物に感じて動く、ゆゑに声に形はる。声あひ応ず、ゆゑに変を生ず。変じて方を成す、これを音といふ」『礼記』楽記篇)。この古代中国の「経書」に記された〈音声〉の起源をめぐる記述は重要である。〈音声〉は外部との〈情〉に触発され、揺れ動き、生成される。それは〈詩〉の起源でもあるからだ。

〈音〉と〈声〉、〈声〉と〈情〉、〈情〉と〈詩〉の関係性の膨大な解釈は、「経書」を紐帯とする儒家たちによって行われてきた。荻生徂徠(1666-1728)は、〈詩〉を「古の人のうきにつけうれしにつけうめき出したる言の葉」(『徂徠先生答問書』)と語る。儒家における〈詩〉の根源性は、外部の〈情〉に触れ、咽喉と内部の声帯を震わせ、「嗟嘆」が朗々と響き合う〈声〉そのものなのである。

本報告は、そのような儒家言語論の知的営為を、近世東アジアの文脈から捉え直すのが目的である。具体的には、清代の戴震(1724-1777)と、江戸時代の皆川淇園(1734-1807)という二人の思想家を取り上げる。彼らは〈音声〉の発生を、身体に内在化された〈気〉が切り結ぶときに生成されるプロセスとして見出し、その思索を深めた。そして互いに《天道》(戴震)と《開物》(皆川淇園)という、多くの物が響きあう独自の言語論を互いに構築した。かかる視座により、東アジアの思想的文脈から、儒家言語論テクストを読みほぐす行為を通じて、〈声〉の現前とその射程への再考を促したい。

歌の起源、言葉の起源──中世後期における歌の生得性についての問
関沢和泉(パリ第七大学))

人間は生まれつき歌う事を知っているのだろうか?

この問は、ヨーロッパ中世は13~14世紀に「人間は生まれつき言葉を話すことを知っているのだろうか?」という問と並行した形で、しかし、そうした言語理論における問とは、おそらくやや異なった歴史的リズムにおいて、問われた。この問は、音についての知──すなわち音楽──を生まれつき有しているかどうか、という問と重なり合いながらも完全には一致しない形で問われて行く。

当時、人間が言葉を生得的に有しているかどうかという問は、人間という、動物の一つの種が、動物の一つの種として、種に固有の音声的コミュニケーションの道具を生得的に有しているかという問と繋がる問であった。つまり、そこでは、動物に対する人間の固有性も問われる事になる。そして、また、動物たちの「声」と人間の「声」がどのように異なっているのか、それとも同じであるのかといった問題も問われて行く。

他方、音楽という、音についての知、そして人間が自らの声を使って行う歌の生得性についての問は、こうした言葉の生得性についての問と似たような問題構成で問われながらも、両者は必ずしも一致しない。

やがてヨーロッパが遠い将来に歌と言葉について繰り広げることになる起源論の、中世後期における遠い前史を、1200年代中盤から1300年代初頭の大学における諸テクストの中に探る。

ミュージックヴィデオにおけるリップシンクの《自然さ》の獲得についての一考察
白井雅人(上武大学)

ミュージックヴィデオ(またはプロモーションヴィデオ。以下国内で通称として広く用いられているPVと略)は、現在CD店の店頭や、CATVなどを中心として広く流布し、その存在を認知されている。PVは本来特定の楽曲の販売促進を主目的とする商業的な映像として製作されているうえに、すでに完成されている楽曲に対して後から映像をつけたものであるという点で、他のジャンルの映像とは大きく意味合いを異にするものである。

多くのPVでは製作の際、アーティスト(ヴォーカル)は楽曲、すなわち自らの歌声のメロディ(実際にはその発声のタイミング)だけでなく歌い方(声の表出の際の表情や息づかい)にいたるまでを厳密に模倣し再現しようとする。これがPVにおける《リップシンク》──いわゆる《口パク》──である。つまりPV製作においては、あたかもその声が映像の中のアーティストそのものから生み出されているかのように見せかけるということが通常行われているわけである。それが《現実》ではないこと、すなわち《口パク》であることを視聴者は当然知っているはずであるのだが、だからといってそのPVに不自然さを感じることはほとんどなく、《自然な》ものとして受け入れている(もちろん道徳的に問題とされることもない)。

ここではそうしたPVにおける《口パク》映像が《自然さ》を獲得するにいたる機構を解明すべく、《リップシンク》そのものに内在する微少なズレ、あるいは歌い方にまつわるわずかな雰囲気の違いの感覚に着目し、それが意識的/無意識的に視聴者に認識されている可能性を検証する。そしてPVにおける《リップシンク》のある種の不完全さがPVの《自然さ》の源となっているのではないかという仮説のもとに、PVにおける《リップシンク》そのものをいわば逆説的に解読することを試みてみたい。