新刊紹介 単著 『トポグラフィの日本近代』

佐藤守弘『トポグラフィの日本近代』
青弓社、2011年3月

「トポグラフィ」という語は場所に関わる記述を指すが、この「記述」を客観的で確定されたものではなく、場所のイメージを構築する人間の行為として考えるのが、視覚文化論、ヴィジュアル・カルチャー(・スタディーズ)の教えである。これをバックボーンとした本書は、地方武士にとっての江戸泥絵、外国人観光客にとっての横浜写真、マスメディアや行事を通じた京都表象、芸術写真として捉えられた山村風景を取りあげる。このうち京都だけは短い論考にとどまったためか、副題には挙がらない。時代はおおよそ19世紀後半から20世紀初頭にまたがる。

視覚文化論という言葉には、美術史や写真史の枠から漏れていたジャンルを扱うという対象のみならず、視覚の対象となった物質的存在やメディアや行為に「美的、象徴的、儀式的、あるいは政治的イデオロギーや実用的機能」(p.8)を読み込む態度も含まれている。われわれはそうした視覚的な対象からイメージを立ち上げる。その「われわれ」には社会的・歴史的条件という負荷があり、特定の場所を特定の仕方で意味づけることには、「われわれ」が属する社会的集団のアイデンティティが関わる。特に第4章で、写真論の流れにおける芸術写真運動の位置づけ、志賀重昂に代表される風土論、言文一致運動と並行した「風景」の成立、また内面の「表現」という日本版ピクトリアリズム写真の基盤、匿名の風景が喚起するノスタルジーのメカニズムなど、それまで示唆されてきた論及の視野が一気に明確化している。各章で示唆されている鉄道の整備に関しては、別の機会に活字化されることになろう。

著者が生まれ育ち日常として引き受けたはずの京都に言及が少ないことは興味深い。内面化された日常と外側からやってくるラベリングとの間の「翻弄」を著者は告白するが(「風景の呪縛」http://www.seikyusha.co.jp/genkou/index.html、いずれ http://www.seikyusha.co.jp/genkou/blank102.html に移されるだろう)、東京西郊の平凡な住宅地に生まれ育った評者には想像が容易ではない。語られる京都のイメージは、論じられたごとく場所の客観的な姿など示さない。そのイメージの持ち主、発話者のアイデンティティの表明である。われわれが京都についてのイメージを語るたびに、日本人なり東京人なり○○人なりの自らのアイデンティティをぶつけているならば、京都に生まれ育った著者にとってはきびしいだろう。自らのイメージをとりまく邪念を薙ぎ払う著述に極力寄り添うのも、アカデミズムの一つのかたちである。(天内大樹)