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「建築の際」レポート――第7回「映像の際」

2008年から東京大学大学院情報学環・学際情報学府主催で「建築の際(キワ)」という連続トークイベントを継続中である(「建築の際」Website)。本企画は、情報学環・福武ホール(安藤忠雄建築研究所設計)が竣工したのを機に、赤門近くというキャンパスの「際」に立地する同ホールを拠点として、大学研究者に限らず、各分野の第一線で活躍するゲストと大学院生の対話を社会に開いていくことを狙いとして企画された。大きな特徴は、大学院生によるボトムアップ型の自主企画という点にある。文系/理系、研究室/研究科の垣根を越えて集まった大学院生が、ゲストの選定から、アトリエや研究室への事前取材、プログラム作成、当日の司会進行・問題提起、『新建築』誌でのレポート記事執筆までの一連のプロセスを担っている。

「建築の際」では毎回、「建築家×異分野の専門家×東大情報学環教員」の3組のゲストをお招きしている。プログラムの構成は、基本的に前半はゲストの講演、後半は大学院生からの問題提起を踏まえたゲスト間の鼎談となっている。なお、講演内容については、事前取材時に大学院生のリクエストを踏まえて、すり合わせをしている。これまでの計7回のゲストの組み合わせは下記のとおりで、現在第8回を準備中である。

● 第1回「都市の際」:
安藤忠雄氏(建築家)×東京大学大学院生×吉見俊哉氏(社会学・文化研究)

● 第2回「アジアの際」:
隈研吾氏(建築家)×藤森照信氏(建築家・建築史家)×姜尚中氏(政治学)

● 第3回「形式の際」:
青木淳氏(建築家)×菊地成孔氏(音楽家)×岡田猛氏(認知心理学)

● 第4回「振舞の際」:
山本理顕氏(建築家)×野田秀樹氏(劇作家)×山内祐平氏(学習環境デザイン)

● 第5回「空間の際」:
原広司氏(建築家)×松本幸夫氏(数学者)×暦本純一氏(実世界指向インタフェース)

● 第6回「生命の際」:
伊東豊雄氏(建築家)×福岡伸一氏(分子生物学者)×佐倉統氏(進化生物学者)

● 第7回「映像の際」:
鈴木了二氏(建築家)×黒沢清氏(映画監督)×田中純氏(表象文化論)

「建築の際」は、諸技術・芸術・科学の「統合」の術としての建築を軸に、学と学が接するディシプリンの境界である「際」に立脚するからこそ立ち現れてくる知の風景を垣間見ようする試みである。伊東忠太がアーキテクチャーに「建築」という訳語を適用した際、そこに雑多なものを「統合」する術としての意味を込めていたことを想起しておいてもよいだろう。本企画では、建築と異分野の連続性と差異を探ることで満足せず、そのことを通して、より建築独自の固有性や可能性に迫ることを目指している。

ここでは、2010年10月2日(土)に開催された第7回「映像の際」(大学院生コーディネーター:篠原明理、難波阿丹、松山秀明氏の3名)について報告しておきたい。まず大学院生コーディネーターから、第一に、ジャン=リュック・ゴダールの映画『軽蔑』(1963年)に登場するマラパルテ邸などを例に、映画と建築における文法(空間・時間の記譜や制約)の差異、第二に、映画における都市の表象の可能性と限界についての問題提起が投げかけられた。以下、これらの問題提起をめぐるゲストの鼎談や講演の内容を簡単にまとめておく。

冒頭に黒沢清氏の講演では、カメラには絶対に映っていない場所があるという指摘がなされた。すなわち、フレームの問題である。それは映画の不自由さであると同時に、可能性の所在でもある。確かに存在はしているが映らない、未知の謎めいた場所——それは幽霊でもあろう――をワンカットごとに抱えこみながら進行していく。それが映画の表現やいかがわしさではないかと黒沢氏はいう。同じく、鈴木了二氏の建築にも、すべては可視的であるはずにもかかわらず、どこか見えない部分がある。田中純氏はこの点が鈴木氏の建築が映画的であり、いかがわしさを持っている所以ではないかという。さらに、田中氏は、鈴木氏が建築の創作過程において行なう、写真、図面、模型、フロッタージュというメディア間の変換も、その見えない位置をメディア間の差異として探ろうとする試みではないかと付け加えた。

なるほど、数多の映画監督のなかでも、黒沢氏はカメラを置く位置やフレームの切り取り方に徹底的にこだわる。そのフレーム設定の緻密さが、フレームの外部(への想像力)を取り込むことを可能にし、映画に強度を与える。文脈は異なれど、田中氏の講演で紹介された「都市表象分析」という枠組みも、ネットワークとして対象化可能な都市から零れ落ちる残余=「非都市」から都市の強度を逆照射しようとする点において、黒沢氏の手つきと通底するところがある。ただし、近年の田中氏の仕事は、アルド・ロッシの都市・建築論を参照しつつ、非都市という非の論理から、具体的局所構造としての境界性や都市の原型的な構造へと関心を移行させているという。ここでいう境界性や原型的な構造とは、たとえば湾岸、坂などの異世界への通路を持っている性格や「歴史の外」にある時間性を指す。そして、これらは黒沢氏の映画『回路』(2000年)における開かずの間、『アカルイミライ』(2003年)のクラゲ、『叫』(2007年)における湾岸、大洪水後の東京のイメージ、『トウキョウソナタ』(2008年)で描かれる海などにも見られるのではないかという指摘がなされた。

また田中氏は、映画と建築を架橋する視点として、ヴァルター・ベンヤミンによる「散漫な知覚」や「触覚的知覚」の議論を引き合いに、見た時には記憶できないが無意識的には残存していて不意に甦ってくる記憶、すなわち映画も建築もまさに忘れることによってしか記憶されないテクスチャーがあると議論を展開していった。それは「亡霊性」ともいえると。そして、東京を多く舞台にした黒沢氏の映画は、無意識的に蓄積されるテクスチャーの記憶——上述の都市の境界性や原型的な構造——が特殊で魅惑的であり、東京の亡霊性を召還させるという。

一方、鈴木氏も、黒沢氏の映画で切り取られる建物の映像からは、フレームおよびショットに込める強靭な決意が感じられると述べた。また、パースペクティブがはっきりとしたパリやニューヨークと異なり、空地や空隙が重層化した東京は映画に撮るのが難しいとしたうえで、黒沢氏の映画はそれに成功していると評した。黒沢氏の映画を読み解くキーワードとして、原型建築・開口・踊り場・空地・リキッドという5つを挙げた鈴木氏による切り込みに、黒沢氏がショットごとの意図を種明かしするというライブ感あふれるやり取りが繰り広げられた――時間の都合上、ごく一部しか披露することができなかったのが残念だが。

会場との質疑応答でも、映画における脚本と、建築における敷地や図面の役割との比較がなされるなど、示唆に富んだやり取りが交わされた。終演後は、福武ホールに併設されているUTカフェで懇親会をすることが恒例となっている。この日もゲストのお三方に最後まで残っていただき、コーディネーター以外の学生や関係者も交えての和やかな歓談が夜遅くまで続いた。(報告:南後由和)

写真撮影:松岡康・渡邉宏樹