第5回研究発表集会報告 | シンポジウム報告 |
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2010年11月13日(土) 16:15-18:30 午後2
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
シンポジウム:映像・深さ・身体──3Dの系譜
【パネリスト】
もどきの経験 スクリーンをみる身体とスクリーンにいる身体
石田美紀(新潟大学)
1953-D年、日本 「立体映画」言説と映画観客
中村秀之(立教大学)
映画館を覆う ディズニーとエイゼンシュテインの立体表現
細馬宏通(滋賀県立大学)
【司会】
木下千花(静岡文化芸術大学)
今回のシンポジウム「映像・深さ・身体 3Dの系譜」は、まず司会の木下氏によるイントロダクションによる、シンポジウム全体の枠組みの提示から始められた。そこで呼び出されるのはジョナサン・クレーリーによる、ステレオスコープが、脱中心化した観察者のある視覚的制度への移行を表すものであったというモデルである。そして映像の深さ――ディープフォーカスにおける観客の注視の自由度など――の問題や、観客の身体性といった問題が挙げられた。全体としては、現在形の3D映画もその射程に収めながら、「3D」をキーワードとした映像メディア史的な検討が試みられていたといえるだろう。
それを受けて石田氏の発表では、まず『アバター』(ジェームズ・キャメロン 2009)にみられる「観ることへの準拠枠」の演出が例示され、そこから『裏窓』(アルフレッド・ヒッチコック 1954)における準拠枠的の演出との相似が指摘される。さらにヒッチコックによる立体映画『ダイヤルMを廻せ!』(アルフレッド・ヒッチコック 1954)との比較も交えて、物語世界と観客席が地続きにある立体映画の「演劇的なものの残滓」について考察する。次にモーションキャプチャ技術や、コンピュータゲーム内のプレイヤーキャラクターの操作における、観る人が操る人になることで生成される「もどき」の経験を取り上げ、物語世界への没入体験を生みだすシステムについて考察する。ここで「3D」というキーワードは準拠枠的な演出や、観客の経験において考察されていたといえる。
続いて中村氏の発表は、立体映画についての言説史とでもいうべきもので、立体映画ブームに沸く1953年の言説を辿りながら、その当時の立体概念が、どのような形態で理解されていたのかについて考察するものであった。なかでも立体映画はワイドスクリーン化によって廃れていったのではなく、当時はワイドスクリーンやシネラマそれ自体が立体映画の範疇に含められていたという指摘などは、その頃の言説における立体概念が、現在われわれが思っているよりも、遥かに幅広いものであったことを示すものである。
最後に細馬氏の発表では、ステレオスコープについてではなく、スクリーンの暗転による奥行き表現についての考察がなされていた。まず『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン 1925)のラストにおける、迫り来る船首がスクリーンを暗闇で覆うシーンが例示される。そして、それは『プレーン・クレイジー』(ウォルト・ディズニー、アブ・アイワークス 1928)における、アニメーションのなかの「物体」によってスクリーンが覆われるというユニークな表現と併置される。そのうえで細馬氏は、エイゼンシュテインによる「立体感」についての言及を参照しながら、立体感というものは単眼――すなわちスクリーンの平面上――においても表現できるものであり、そのような単眼的な立体感は、両眼視差による複眼的な立体感――これは、物質としての演劇的空間それ自体が持つ立体感を指すと思われる――とは異なるものであると指摘する。そして次に、映画館とはそれ自体が演劇的空間であり、いわば立体装置であると指摘する。そして、これらの指摘を踏まえたうえで、スクリーンの暗転による奥行きの表現とは、スクリーンの平面的・単眼的な立体性に加えて、上映空間そのものが持つ複眼的な立体性を介在させるものであるとする。これは「3D」をキーワードとしながら、上映空間を含めた奥行きの表現について踏み込む、極めてスリリングな考察であったといえる。
三方の発表と、その後のディスカッションは、立体映画にまつわる系譜を文化論的に読み替えながら、キーワードとして提示された「3D」の概念を拡張させていた。その点においては興味深いアイデアが散見されるシンポジウムであったといえる。確かに歴史を振り返るならば、近年の3D映画のブームは過去の反復であり、新しいテクノロジーによるリアリティの驚きに目を奪われることなく、その系譜を読み替えることは大いに意義がある。スクリーン上の平面性に統合されがちな一般的な映画言説において、広義の「3D」の概念を導入することは、映画がその初期に持っていたアトラクション的性質を呼び起こすものであるといえよう。
最後に個人的な短いコメントを付け加えるならば、触覚的な視覚体験や、技術的発展から視覚的制度を再検討することも、一方では必要ではないかと思える(もちろん技術的側面に必要以上に絡めとられることは避けるべきだが)。例えばCGの仮想空間内における3D撮影と、実空間における3D撮影が視覚的な制度のレベルで同一のものであり得るのかどうかということを、制作上のプロセスを踏まえながら検討する価値もあるのではないだろうか。また、今回のシンポジウムで検討される対象が、いわゆる劇映画やアニメーションを中心としていたことも若干気になった。実験映画のコンテクストであれば、例えばケン・ジェイコブスの『A Loft』(2010 http://www.youtube.com/watch?v=gJHkx0yAxSo)や、スコット・スタークの『Speechless』(2008 http://www.hi-beam.net/speechless/)といった作品、映画の周縁で試みられてきた多くの拡張映画も、「3D」の系譜を読み替えるうえで、興味深いサンプルになるのではないかと思う。
阪本裕文(稚内北星学園大学)
シンポジウム概要
『アバター』(2009)は21世紀の『ジャズ・シンガー』(1927)となるのだろうか。本シンポジウムは、刻々と更新 される3D映画の現在を視野に収めつつも、「3D」(スリーディメンショナリティ)をキーワードとしてメディア史を振り返る。そこには、観客の知覚と身体、リアリティとイリュージョン、物語とスペクタクル、指標と図像、深さと表層、共感覚と間メディア性など、映画と視覚文化の中心的な問題系が多層的な像を結んで浮上するだろう。