第5回研究発表集会報告 研究発表 4

研究発表4

2010年11月13日(土) 13:30-16:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1

研究発表4:欲動・イメージ・動物化

初期ドゥルーズのヒューム/ベルクソン解釈における差異概念と表象批判
千葉雅也(東京大学/日本学術振興会)

欲動イメージとその運命──ジル・ドゥルーズ『シネマ』における部分対象の問題系
石岡良治(近畿大学)

写真(クリシェ)から力を解放する──フランシス・ベーコンの写真使用について
井上康彦(東京藝術大学)

革命的動物──ドイツ保守革命と獣性の省察
長谷川晴生(東京大学)

【司会】國分功一郎(高崎経済大学)

本グループでなされた諸発表に共通の要素があるとすれば、それは(20世紀西欧の思想と芸術における)「力と物」ということになるであろう。

現在、潜在的な差異の混交から個物が現動化する「出来事」の重視という点でドゥルーズを「ベルクソンの正嫡」とする読解は、ほぼ標準的になっている。しかし千葉氏は、ドゥルーズがヒューム研究から出発したことを重視し、その原子論的動向が後にも生き続けていることを示した。そこではとりわけ、想像‐力による原子的な個物たちの連合(「と」の作用)が必然的ではなくフィクショナルであるという事態が中心的な意味を持つが、千葉氏はそこに、いわば「脱‐存在‐論」的な可能性を認める。存在論(オントロジー)は、諸存在者が何らかの全体性を成しているという「信」に基づいてその存在の多様性と統一の意味を問うのだが、その「論=ロゴス」自体が一般に概念という個物の連合と見なせる以上、それが実在の唯一の全体性と対応しているということは決して確実ではない。ところが、現に複数の「論」が存在するという事実性はあくまでも残る。そしてこれこそが、「論=ロゴス」を持つ動物としての人間たちにとって問いに値するもので在り続けるに違いない。ここには、ハイデガーはもちろん、司会の國分氏も指摘したように、やはりヒュームを踏まえて「全体」の理性的認識の不可能性を論じたカントとの接触点も見出せよう。

それでは、「想像力=イマジネーション」は具体的にどう働いているのか。石岡良治氏の発表は、同じドゥルーズの『シネマ』からそれを読み取る試みの一つだと言える。ドゥルーズは、映像として現れる「運動イメージ」を知覚・情動・欲動・行動・反映・関係から分類している。欲動イメージとは、受動的に現実的な「知覚‐情動」と能動的に現実的な「行動」との間にあって、いわば中動的な「可能性」を映すものであり、震えや断片といった物語からのズレとして現れる。それは、単純に現実的なものでも単に可能的なものでもない「現実化可能な=リアルな」ものとして、概念的な(現実の、ではない)「自然」と呼ぶこともできる。実際、ドゥルーズはこの欲動イメージの水準から創作における「自然主義」を規定しようとしており、それは一方で作家論的なアプローチでありながら、同時に抽象的な理論枠組みの練り上げでもある。この両義性は、欲動イメージ自体の中間性に呼応しているのである。

無論、こうした「可能的な=力的なもの=ポテンシャル」の問題は、映像・動画のみのものではない。井上康彦氏によると、フランシスコ・ベーコンは、一方で写真、特に「友人」が写るそれに強い執着を持ちながら、他方でその「クリシェ」的な限界性を破壊したいと考えていた。その一つの方途が、物体としての写真自体を切り、捩り、脱‐形態化することであり、彼の絵画作品には、このように歪んだ写真を輪郭も含めて「モデル」としたものが少なくない。彼の特徴である歪んだ人物像とそれを取り巻く枠組みという構成は、写真というメディアの力を破壊的に解き放つことへの「欲動」と不可分であり、その結果として「肖像画」という一度は過去のものとなりかけた絵画形式に、独自の可能性が拓かれた。しかし彼の作品は同時に、描かれる(そして描く)「人間」の肉体的な内面を言い知れぬ力でえぐってもいる。

このような「人間の内面の肉」は、「動物」あるいは「獣性」というメタファーのもとで20世紀の思想的・政治的な動向に強い影響を与えた。長谷川晴生氏は、ニーチェの「金髪の獣」が第一次大戦を経て「ドイツ保守革命」と呼ばれる運動に流れ込む経緯を、主にユンガーに依拠して提示した。彼は『労働者』において、動物・有機体を機械と本質的に変わらない一つの機構と捉えた上で、「無名兵士」や労働者大衆を、巨大な機械文明に接続された「動物」と規定する。マルクス主義はこうした事態を「人間の疎外」と捉えるわけだが、ユンガーはむしろここにこそ、人間という「悟性を持つ動物」の生の充実を認める。これが、共産主義とは異なる近代的「革命」の糸口だと考えられるのである。このような立場の内に、同じドイツ保守革命の流れに属するハイデガーは主体性の形而上学の逆説的な完成を、カール・シュミットは逆に人間的主体の融解による社会の全体的統一の消失を、それぞれ見て取った。このように相反する批判を引き出したという点からもわかるように、ニーチェ‐ユンガーという系譜の可能性は未だ不確定であり、当日は触れられなかったが、ドゥルーズ/ガタリの「戦争機械」や「動物への生成変化」との関係など、今後の研究・議論には多くの余地が残っているように思われる。

串田純一(東京大学/日本学術振興会)

発表概要

初期ドゥルーズのヒューム/ベルクソン解釈における差異概念と表象批判
千葉雅也(東京大学/日本学術振興会)

近年、ドゥルーズのデビュー作である1953年のヒューム論『経験論と主体性』が再注目されており、Jeffrey A. Bell, Deleuze’s Hume(Edinburgh Univ. Press, 2009)などの研究も出ている。しかし、『経験論と主体性』とその後のベルクソン論(1956年)との関係については分析が十分でない。『経験論と主体 性』は、「連合主義」の認識論にもとづく主体化・社会化のプロセスについての一種の実践哲学であった。その後、ドゥルーズはベルクソン論で初めて自らの理論哲学を「差異の存在論」として明確化する。一般に、ベルクソン主義こそがドゥルーズにとって差異の哲学=存在論の基礎と見なされる。しかし本発表では、 前‐存在論的なヒューム論は、ベルクソン主義と拮抗する「存在するとは別の仕方で」(E. レヴィナス)の思考を潜在させていた、という仮説を検討する。まず(1)『経験論と主体性』での差異概念の萌芽、およびそれに関連する表象概念批判を分析し、(2)その問題圏とベルクソン的「差異の存在論」とのズレを示す。世界の「潜在的」全体性を想定するベルクソンと、世界を全体性なしの断片群と見なすヒューム、この両者の間にドゥルーズを定位する。ハイデガー的に言ってロゴスとは「結集」であり、後年のドゥルーズの「一義性の存在論」も、多様な差異のアナーキーをそれでも結集するロゴス(いわゆる「戴冠せるアナーキー」)であると言える。しかし本発表では、存在‐論の求心力に抗うヒューム‐ドゥルーズの遠心力を問う。

欲動イメージとその運命──ジル・ドゥルーズ『シネマ』における部分対象の問題系
石岡良治(近畿大学)

本発表はジル・ドゥルーズの映画論『運動イメージ』第8章「情動から行動へ━欲動イメージ(image-pulsion)」を出発点に、彼の「自然主義」読解を通じて見出される「部分対象」理論の射程の検討を試みる。

「欲動イメージ」は彼の映画論のシステムにおいて、興味深い位置を占めている。ドゥルーズはパースの記号論を「再検討」することによって、パースの三つの記号分類に加え、それぞれの中間形態と「零次性」を見出し、六つのタイプのイメージと記号を引き出した(『時間イメージ』第二章)。欲動イメージは情動イメージ(一次性)と行動イメージ(二次性)の中間に位置付けられるが、ここで注目したいのは、欲動イメージに対応する二つの記号すなわち「徴候 (symptôme)」と「フェティッシュ(fétiche)」である。

欲動イメージという中間形態は、リアリズムとしばしば混同される「自然主義」を特徴付けるものとみなされる。自然主義はドゥルーズにおいて恒常的な関心の対象であり、フロイトの「死の本能(欲動)」との関連で読解されてきたが、「徴候」と「フェティッシュ」という記号が担うのは、『アンチ・オイディプス』以降顕著な、精神分析批判を経た上での「部分対象」の問題系である。「全体対象」が退けられた断片からなる自然主義の描像は、きわめて破滅的な様相を呈しているが、そこを通じて見出されるいくつかの理論的ポテンシャルを検討したい。

写真(クリシェ)から力を解放する──フランシス・ベーコンの写真使用について
井上康彦(東京藝術大学)

本発表ではフランシス・ベーコンの絵画に見られる写真的規定について考察する。ベーコンが写真をもとに絵画を制作していたことは再三指摘されてきたし写真と絵画の参照関係も明らかにされている。だが実際にレフェランスとして使用された資料写真自体についての言及は稀である。それらはオリジナルのキレイな写真と比較できない程に変容しているのだ。

写真はわれわれの視覚をなんらかの形態にはめ込む「クリシェ」であり絵画はこうした視覚的規定とは手を切るべきだ、というのがベーコンの立場である (『肉への慈悲』)。しかし「クリシェ=写真」を破壊しようとする彼の方法自体が写真的規定を受けているという逆説がある。というのも、ドゥルーズがベーコンの絵画を分析する際に導出した「物質的構造」「フィギュール」「輪郭」の三要素から生み出される「痙攣」(『感覚の論理』)は、クラウスが写真に生じる特性として挙げた「痙攣」(「シュルレアリスムの写真的条件」)としてパラフレーズすることができるからだ。つまり、ベーコンの絵画制作の仕方が写真機 のイメージ生成と酷似しているということだ。これは言説上のアナロジーであるばかりでなく、彼の資料写真と絵画の比較からも裏付けられる。

絵画におけるこの写真的規定を示した上で、本発表は、更にそれをかいくぐったベーコンの方法を提示することを目的とするが、それは「transformation変形」と「déformation脱=形態化」の対概念によって説明される。

革命的動物──ドイツ保守革命と獣性の省察
長谷川晴生(東京大学)

「こうした卓越せる種族すべての根底には、猛獣を、すなわち獲物と勝利とを貪欲に求めて彷徨する豪奢な金髪の野獣を、認めずにはいられないのである。」(『道徳の系譜学』)ニーチェによって高貴な人間性の古層に見出された獣性の称揚は、そのニーチェを父祖(Erzvater)として展開した20世 紀ドイツの保守革命(アルミン・モーラー『ドイツの保守革命1918-32』)において、その最も高揚した対応物を見出すことができる。とりわけエルンスト・ユンガーは、第一次世界大戦という総力戦の「啓示」(カイヨワ)によりもたらされた現実のなかから「魂の底に潜んでいた動物性」(『内的体験としての 闘争』)が躍り出る様相を観察している。このような、近代戦争での主体喪失の経験の根底に技術による人間の獣性の解放を見る認識は、代表作『労働者』での 有機体と技術・機械の境界の融解という自然観にまで発展することになるのである。

本発表では、ユンガーの戦間期の代表的なエッセイについて人間動物化論と人間機械論の特異な融合として読解を試みることで、しばしばポストモダン性すら指摘される(コスロフスキ)ドイツ保守革命が、その人間観・自然観において「革命的」とされる所以を明らかにしたいと考える。その参照項としては、「ユンガーら保守革命の著者に対する取り組み」(モーラー)であるハイデガーの講義『形而上学の根本諸概念』が主要に言及されるであろう。