新刊紹介 単著 田中純『イメージの自然史――天使から貝殻まで』

田中純『イメージの自然史――天使から貝殻まで』
羽鳥書店、2010年6月

「図像的転回」(iconic turn)と呼ぶのだそうだ。過去20年ほどのあいだにあらわになってきた、人文学・文化批評におけるある種の態度の転換をさす。言語テクスト中心から、視覚的イメージへの関心へ。日本ではさいわい松岡正剛、高山宏、荒俣宏といった怪物的な人々の80年代以降の活躍により、アカデミックな枠組に拘束されない人文学が広範きわまりないイメージの探求にむかう姿勢は、一般の読書人にもよく共有されてきた。なかでも田中純のつねに明晰でクールな研究は、「都市表象分析」の名のもとに独自の地平を切り開いてきた。

本書はその最新の成果で、その視野と射程にはいつものことながら圧倒される。「UP」、「ユリイカ」、「10+1」といった雑誌に書き継がれてきた個別のエッセーの集積だが、そこで論じられる多様な対象を、ただきらびやかな固有名詞の羅列にしてしまっては、かえってそこにみなぎる運動性を殺ぐことになるだろう。注目すべきなのは書名が語るとおり「自然史」への志向であり、ヴァールブルクとダーウィンを導きの糸として、古今東西の人々が産出するイメージ群をその系統発生と個体発生において見てとろうとする意志だ。

ナチュラル・ヒストリーとは「誌」であり「史」である。つまり、現在という時の島にばらまかれた個別事例の集合体であり、事故と偶然の全面的な介入を受けながら時間の中で遷移し切断される流れの発見でもある。またイメージとは個々の人にとってつねに混沌を内包しつつ全面的にひろがる「肌理」であり、同時に、特異な唯一性にまばゆく輝く「粒」としても体験される。ヒトがヒトとなる以前から始まった知覚の履歴を一瞬たりとも見失うことなく、ヴァイゲル(『ゲネア=ロギック』)、キューブラー(『時のかたち』)、カイヨワ(『メドゥーサと仲間たち』)らを援用しつつ著者が考察の対象とする〈言葉〉と〈物〉、そしてこのそれぞれを同心円状にとりまき、ひろがり、干渉し、やがて人々を全面的にまきこむ巨大な渦となる〈イメージ〉という三者の総体は、やはり「都市」というひとつの名で呼ぶしかないヒトの経験の場なのだろう。

「都市表象分析とは何か」という問いについては第4章における「自註の試み」が明快な回答を与えている。ぼくとしては、あらゆる主題の糸を追い、天使たちが恐れて足を踏み入れない細部にまで分け入り、「ひたすらな彷徨によって書く」ことこそ、彼の一貫した「方法」だったのだという印象を受けている。モノとしての書物の終わりを安易に口にするばかげた俗論が猖獗をきわめる時代にあって、書物を「歪んで奇妙な天使」と呼ぶ田中は、さらにこう書く。「ネットワークや電子化の時代に、紙の書物は次第に時代遅れの奇妙なオブジェになってゆくのかもしれぬ。だが、それは書物のひとつの本質が露わになる過程ととらえるべきだろう。この『暗いおもちゃ』(稲垣足穂)は、一冊一冊が異なる表情で佇みながら、どこか不穏な気配を漂わせている。液晶ディスプレイにはない『暗さ』、その翳りに、小さな生き物を思わせる生命が微かに宿る」(「跋」より)。

ヒトという種はみずからの種としての輪郭をつねに再検討してゆく努力を強いられているとぼくは思うが、われわれはすでに書物との後戻りのできないハイブリッド化を経て、その分だけ別の種となり、このエキュメノポリス(全面化した都市)を生きてきた。そして「都市」はわれわれが地上のどこにいようとも、どんな孤独な瞬間にも、個々の人間をまるで意に介さない奔流として、われわれのうちに流れこんでくる。批評に果たすべき役目があるとしたら、それはこの「都市」というイメージ体制がヒトをどこに向かわせ、どんな外在物を作りだし事件をひき起こしているかを、「誌」と「史」の観点から展望し、その意味を問うことだろう。終わりのない「都市表象分析」が要請される所以だ。(管啓次郎)