新刊紹介 単著 高田康成『クリティカル・モーメント:批評の根源と臨界の認識』

高田康成『クリティカル・モーメント:批評の根源と臨界の認識』
名古屋大学出版会、2010年2月

批評というものが「危機=クライシス」の意識から発するものであるならば、そこには冷酷なまでの現状認識と、それを未来への賭場口に変換するための緻密な学識がなければならない。詳細を無化するのではなく、むしろそこにおいて問題となるべきこと以外は存在していないかのように(=als ob)浮かび上がらせるという意味において、批評は「表層」的な実践でもあるだろう(ひょっとしたら、それは結晶化されるべき文体を探究する「表象」的実践なのかもしれない)。少なくとも、かつて批評はそのようなものとしてあり続けてきた。だが、健忘症的な言説の氾濫が危機意識の危機を招来している今日、折々に耳にする「批評の危機 crisis of critique」という語は、文壇的衰弱に関連した単なる言葉遊びにとどまるものではなくなっている。ましてや、批評性を持たない言説に限って、「今ここにある危機」を声高に叫ぶのだから始末が悪い。重大な危機は看過され、すべての危機がやがて等しく平板化していく。深さを失い重力を失ったこの世界は、どうやら相対主義とポピュリズムが蔓延する風潮と相性が良いらしく、何が危機なのかわからぬまま、やがてただ息だけが詰まってゆく。

『クリティカル・モーメント』の著者高田康成は、こうした現状をにらみつつ、本著のなかで明解にして有効な主張を一貫して説き続けている。それは、「古典」を懐中に潜ませることなくして真正の批評を行うことはできない、ということだ。ルネサンスに端を発する文献学的努力に基づいた人文学の誕生以来、西洋的人間はつねに、この根源的な歴史意識を携えながら、不断の新旧論争に置かれ続けている。この精神はモダニズムへとスムーズに変貌し、東西を覆う運動となる。

過去二十年にわたる著者の思索の軌跡は、現代的なものへのチャーミングな目配せと、人文学的古典的資源に対する快くも厳しい視点を、まさしく新旧の緊張感として両立させている。さらに本著においては、冒頭と最終部におけるレーヴィットの導入が、日本の思想史のなかに残っている西洋的フマニスムスの痕跡を浮き彫りにする。ダンテ、シェイクスピア、チョーサー、ボッカチョから始まり、シュペングラーやヴィラモーヴィッツ、アウエルバッハにまでいたる近代人文学の巨人たちの系譜を丹念に追いかけながら、世俗化した社会におけるヒューマニティの可能性を広く世に問うこの著作は、「理論 theory」の名のもとにお手軽な図式化が浸透しつつある現代において、まさしく「批判的」に読まれる価値があるだろう。(大橋完太郎)