トピックス 3

フランチェスコ・カンパニョーラ講演会

フランチェスコ・カンパニョーラ講演会

フランチェスコ・カンパニョーラ講演会


◆東京大学講演
隠喩としてのルネサンス──第二次大戦前後のヨーロッパ・アメリカ・日本における歴史記述を通して
科学研究費補助金(若手研究B)「西洋近代における「崇高」の思想史:美学および関連諸学への領域横断的アプローチ」(研究代表者:星野太)主催、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属「共生のための国際哲学研究センター」(UTCP)共催、東京大学、2014年6月20日(コメンテーター:池野絢子、岡本源太、司会:星野太)

◆岡山大学講演
18世紀ヨーロッパの雑誌に見る日本──「文芸共和国」における「日本」の表象とその意味
岡山大学文学部文化講演シリーズ「ニホンガク最前線」第5回、岡山大学、2014年6月27日(司会:岡本源太)

この6月に来日した新進の思想史家フランチェスコ・カンパニョーラ(ゲント大学)による講演会が、東京大学と岡山大学で開催された。かたや第二次世界大戦前後の日独伊におけるルネサンス研究を、かたや18世紀啓蒙期ヨーロッパにおける日本研究を考察対象とするものだったが、いずれの講演も、人間の知的営為がその時代その時代に担う政治的な含意と効力を分析するという点で、共通していただろう。東京講演では、エウジェニオ・ガレン、ハンス・バロン、ポール・オスカー・クリステラー、林達夫、花田清輝らのルネサンス理解をあとづけつつ、戦争という政治的・歴史的・思想的な状況下でのその「危機と再生」の象徴効果が分析された。岡山講演では、「文芸共和国」と名指された啓蒙期の知識人ネットワークのなかで、日本研究──とりわけ地理学における──が引き起こしたカトリック/プロテスタント/リベルタン間の応酬をたどりつつ、近代的世界像の成立の最後の一齣として日本が象徴化されていったことが指摘された。

思想と学問が、その内容のイデオロギー的な次元においてではなく、その営為それ自体において行使する政治性とは、いったいどのようなものか──この問いかけは、マルタ・ファットーリ、ジャン=ロベール・アルモガット、そしてジャン=リュック・マリオンとヴァンサン・カローといった現代の錚々たる哲学史家たちの薫陶を受けたカンパニョーラにとっては、しごく当然のものかもしれない。とはいえ、その政治性の具体的な諸相を、「ルネサンス」や「日本」の複雑な象徴化の過程のなかにあとづけていくところに、今回の両講演の醍醐味があっただろう。

考察の対象となり、分析の道具にもなる名称や観念や言葉がそれ自体、論争を呼び込み、政治的駆け引きを余儀なくさせる力を有している。なかでも「ルネサンス=再生」という隠喩的な含みの多い言葉であるほど、その力は強くなる。たんなる時代の名称としてのみ「ルネサンス」の語をもちいようとしても、もともとの隠喩性が新たな政治的象徴効果を引き込んでしまう。また、とりたてて隠喩的とは見えない「日本」であれ、もっぱら地理学の文脈で使われていたとしても、啓蒙期の揺れ動く世界像のなかでは論争的な含意を有してしまう。

デイヴィッド・アーミテイジが近年、アーサー・ラヴジョイ的な観念史にもクエンティン・スキナー的な思想史にも代えて、新たに「観念のなかの歴史(History in Ideas)」を提唱したのも、こうした観念それ自体の政治性を問題にしようとしてのことだろう。アーミテイジが「紛争(civil war)」について、またソフィア・ローゼンフェルドが「共通感覚=常識(common sense)」について論じたように、観念や言葉は、単線的な継承も同時代的な共有も飛び越えて、繰り返し論争を呼び込みながら、政治的状況を構成し、さらには歴史的現実を形成していく。「ルネサンス」と「日本」を主題としたカンパニョーラのこのたびの講演も、その政治的歴史性の問題に切り込むという、新しい思想史研究の動向と今後の実り豊かな成果をうかがわせるものだったように思う。(岡本源太)